温泉地に風俗産業はよく似合う。昔から社員旅行の宴会が終わると仲間と共に浴衣姿でワイワイ言いながら夜の街へ繰り出して、最終的に落ち着くのが決まって成人映画館だったりする。昭和30年代以降、数多くの飲食店や風俗店が建ち並ぶ歓楽街として栄えてきた別府駅から程近く…ネオン瞬く繁華街の入口に、ひときわ目立つ大きな成人映画と書かれた丸い看板の『別府ニュー南映』が建っている。戦後間もない昭和20年代後半、東宝や東映映画専門の上映館“駅前南映”としてオープンしたコチラの劇場が成人映画を掛けるようになったのは昭和40年代に入ってからのこと。当時は映画だけではなくストリップも行なっていた。「朝から劇場の前に出来たお客さんの行列を見ながら小学校に行ってました」と語るのは二代目支配人の利光雄志氏。他にも映画館“元町南映”とストリップ劇場“別府ロック座”を有し、全ての劇場は連日満員だったという。「僕は子供の時分からテケツ(チケット窓口)で育っているから、まともに自分のところで映画を観た事が無いんです」という利光氏は小学生の時分から映写室に入り、仕事を手伝っていたという。 |
「映写技師のオジサンに命じられたのは、大きなダルマ時計を持たされて、映画を観ながら何コマ目に傷が入っていたかチェックする事でした」つまり、あちこちの劇場から回ってきたフィルムに付いた傷を配給会社に報告するため、小学生の利光少年は映写室の窓から女性の裸が映し出されたスクリーンを観ながら傷の入っていた箇所を入念に書き留めていたという。この報告書が配給会社に届けられると、どこの映画館で傷が入ったか追跡できるというのだ。「小屋育ちの慣れやわね。傷ばかり観ていたから女の裸なんて目に入っていないんですよ」と笑う利光氏は3歳の時から近所にあった“別府ロック座”で遊んでおり、ショーの最中、利光少年がトイレを使用する時は暗い中を照明のおじさんがスポットライトで照らしてくれていたそうだ。「お客さんも演出のひとつと思っていたらしく(笑)踊り子さんもその間は踊りを止めて待っていてくれて…時代が良かったのでしょうか、余裕がありましたよね」女性の裸はエロスではなくショーの演出として存在するもので綺麗な芸術作品として映っていた利光氏は、子供の頃から他の劇場にも関心を抱き、自発的に市内の劇場を見て回っていたという。そんな幼少の頃から映画館や劇場が遊び場だった利光氏が『別府ニュー南映』を引き継いだのは今から15年前のこと。 |
「一番最初は、親父がフィルムを掛けているのをメモして…そこからは、失敗を繰り返しながら全ての操作は独学で覚えましたね。親父は昔気質の人だから教えてくれんかったんですよ(笑)」現在も利光氏は、定休日も朝から映写室に入り浸って映写機のメンテナンスを欠かさない。昔ながらの活動屋だったお父様は、映写機が故障したという理由で上映時間が遅れた時はいきなり檄を飛ばしたそうだ。「調子がおかしい時は音で判断できますから、ちょっとでもいつもの音と違うと徹夜してでも元の音に戻します」という利光氏の良き相棒である映写機は1950年初期の富士セントラル製の年代物だ。現在のランプはどれも横型が主流なのに対し、コチラの映写機はひと世代前の縦型。「これ一台しかないから壊れたらオシマイですから。上映終了後から翌日の開始までの間が勝負です」全てをバラして再び組み立てる過程で問題の箇所を突き止めるという作業を根気よく繰り返す。「もう手探りの繰り返しですよ」既に交換部品も生産されておらず、時にはジュースの空き缶を切ってガイドローラーに代用している。 |
「笑われるかも知れませんが…上映後、お疲れさんって声を掛けない翌日は音が違うんですよ」そんな時は1時間ほど横について話しかけていると不思議と音が正常に戻るそうだ。「“ボルトとかネジが折れかかっているよ”と、悪いところを教えてくれて、案の定触ってみるとポロっとネジが取れる…コイツの良いところは、それでも上映終了までは保ってくれるんですよ」長年に渡って付き合ってきたパートナーだけに、簡単に映写機を新しくするという踏ん切りがつかないと利光氏は愛おしそうに映写機を眺める。
小さなロビーを抜けると思った以上に奥行きのある場内が広がる。コンクリートが剥き出しの緩やかなスロープとなっているフロアに段差が付いた座席。天井が高いせいか細長い場内ながらもそれほど圧迫感を感じない…と、思っていたら天井を高くしたのではなく地面を1メーター近く掘っており、ちょうどステージの高さが本来の床というわけだ。当初の設計では映写機とスクリーンの高さが低く、どうしても観客の頭に掛かってしまい上映が可能な高さではなかった。床を掘ったのは言わば苦肉の策。「建物自体は設立当時のままやからね…」今でこそ2階にテナントが入っているものの40年前までは2階は楽屋だったという。「昭和40年前半までは映画だけではなくストリップもやっていたから2階は踊り子さんの楽屋だったんです。ステージの裏に2階に続く階段と、地元の人たちに開放していた温泉があって…よく近所の人が入りに来たらしいですよ」 |
『別府ニュー南映』の前身である“駅前南映”は昭和40年半ばに一度、映画館事業から撤退。映画館だったビルの1階をテナントとして貸し出すものの、昭和50年代になって“元町南映”を閉館する事となり、それを契機に『別府ニュー南映』として復活。「今あるイスは元々“元町南映”で使っていたものを自分たちで移設したんです。僕が小学生の時でした…よく覚えていますよ」と当時を振り返る利光氏。当初、週末のみピンク映画を上映していたが、今では新東宝と大蔵映画を三本立で一週間興行を行なっている。客層としては幅広く、年輩を中心としながらも若い人も多く訪れるという。 |
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日中はスーツ姿のサラリーマンが休憩所や電車の待ち時間の暇つぶし場所として利用されている光景が見られる。「ちょっと休憩するのに都合が良いのでしょうね…ウチはお昼の12時から始まって1作品が1時間ですから時計代わりになるらしいです(笑)」14時過ぎの電車に乗りたい場合は2本観て別府駅に向かっても充分間に合うというわけだ。「ただ、年輩の方が多いので夕方から雨という天気予報が出るとガタっと客足は遠のきます。杖ついて来られるお客様もいらっしゃいますから、傘をさす日は皆さん避けるんです」
現在の営業時間は昼の12時に開場して、平日は夜の9時、日曜・祭日は早く夕方の6時には終映するという。「今の課題は、どこまで僕一人でやっていけるか…です」他に市内でプールバーを経営している利光氏は、全ての業務を一人でこなす事に限界を感じている。「アルバイトを雇いたくてもフィルムの掛け替えをイチから教えこむ手間を考えると…」とため息をつく。今は、劇場の入口にカメラ、映写室にモニターを設置して映写中でもお客様が来たらいつでも出られるようにしているという。木曜の休館日もフィルムチェックと機械のメンテナンスで休みがない利光氏だが、最後に語ってくれた言葉に親子二代に渡って劇場に懸ける想いが伝わってきた。「一度、閉館してしまうと周辺の環境が変わったため風営法で成人映画館を再申請する事がもう無理なのです。昔気質のカツドウ屋だった父から、映写機の調子が悪いからと言って開館時間が少しでも遅れただけで叱りつけられながら引き継いで何とかここまでやって来た劇場ですから…忙しいけれどとにかく続けて行きますよ」(取材:2011年9月) 【座席】90席 |
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