沖縄県の世界遺産・首里城の近く…ゆいレール儀保駅から歩くこと10分ほど。車が一台通るのがやっとの閑静な住宅街に忽然と姿を現す建物。戦後間もない昭和25年、まだこの辺りは首里市だった頃に創業を開始した映画館『首里劇場』だ。ところどころ壁の塗装が剥がれた外観から歴史の重みを感じる。「その時代、那覇市内にどんどん映画館が出来ていたんですけど首里市には、文化を発信する施設というのが無かったんです。当時、この辺りは今みたいな住宅地ではなく何も無い辺鄙な場所でしたが、ここで露天劇場を経営していた私の叔父が屋根の付いた映画館を建てたのが始まりでした」と語ってくれたのは、現在三代目の館主として映画の灯を守り続けている金城正則氏だ。“牧志ニュース館”というニュース映画専門館を経営していた先代の金城田光氏は、次第に高まる映画人気から2館目の常設館設立に踏み切った。こけら落としは新東宝の“男の涙”。東宝配給映画を中心に邦画洋画を問わず上映していた『首里劇場』には、中心部から離れているにも関わらず、多くのお客様が詰めかけ、木戸口(チケット売り場)が1つではさばき切れなくなり増設したほどだった。

終戦後、米軍によって占領されていた沖縄の興行は本土とは異なり、戦前の無声映画と新しいアメリカ映画が同時に公開されるという独特のスタイルがあった。廃墟と化した旧那覇市街は米軍用地となっており、その周辺に住む事を許されていた人々と、北部から中部にあった収容所(難民キャンプ)に暮らす人々のために、アメリカ軍から巡回映写のための機材とフィルムが提供されたのが、戦後沖縄における興行の再スタートであった。また沖縄の映画館は木戸口だけ屋根が付いて観客席は屋外という…いわゆる露天劇場が多かったのも特徴であった。しかし、米軍から配給された洋画は、折からのアメリカ映画に対する拒否反応と字幕の読み辛さから人気が無く、観客は日本映画を欲していた。当時はアメリカだった沖縄では日本映画の入手は輸入扱いで、まだ貿易ルートが確立されていなかったため、奄美大島経由で闇フィルムとして16ミリフィルムが流れて来た。やがて昭和25年を過ぎると本土から日本映画の輸入が認められ、米軍政府主導によって粗悪な闇フィルムと違うニュープリントの作品を観る事ができるようになったのだ。


スクリーン前にある広い舞台は沖縄芝居をやっていた当時のもの。裏手には一座が寝泊まりしていた楽屋が今でも残っている。煉瓦を組んだ炊事場や、井戸水を外から引ける洗濯場から当時の様子を窺い知る事が出来る。取材中いつの間にか場内に入り込んだメジロがキィーキィー鳴いていた。夏になると隣接する雑木林から蛍も飛び交うという。どうやら今では使われていない喫煙所の扉から入って来るらしい。夏の夜は扉を開放して風を取り込んでいるのでタダ見をする人もいたとか。「お客さんが多かったから別に気にならなかったね。ココが出来た頃は食べるのが精一杯…そんな時代に儲けさせてもらったのでせめてもの恩返しです」客席の半分は閉館した“国映本館”から譲り受けた椅子だが半分は木のベンチとなっている。「ゴロ寝をしながら映画を観れると好評ですよ」奥行きのあるステージの奥にスクリーンがあるため、どこに座っても観やすい。昔は600席あった観客席も今では2階席が閉鎖され213席となってしまった。通路の床に目を落とすと、かつてあった椅子を固定していたビスの跡。「芝居もやっていた頃はすごいもんでしたよ…立見になると700〜800名は入っていたんですからね」金城氏が映画館の仕事を手伝うようになった頃に芝居を行った時は、ほぼ満席になったという。2階席はスタジアム形式となっており、座席は全て横長のベンチ。コの字型に左右に出っ張っている桟敷席は、以前は畳敷きの喫煙スペースだったそうだ。

至ってシンプルな扉を開けると高らかに響くジングルベルのチャイム。しばらくすると「はいはい…」と奥から金城氏が登場する。「全部一人でやっているから、何もない時は場内に入ってお客さんが来た時だけチャイムで分かるようにしているんです」場内にいてもチャイムが聞こえる…それもそのはず、ココにはロビーと場内を隔てる扉というものが存在しない。入口でチケットを購入して目の前の細長い通路を右左突き当たりまで進めば、そのまま場内に入場できるという作りになっているのだ。「扉が無いのは昔からで、カーテンで仕切っていた程度。壁も木造ですから音が漏れてきますけど(笑)」驚くのはロビーの壁一面に埋め尽くされた新旧ピンク映画のポスター。コチラで上映された歴代の名作から、荒木太郎監督の映画館シリーズ全作が隙間無く貼られているのはまさに圧巻。中央には舞台挨拶で来館された監督や女優の色紙や次回特集上映の予告など情報量も半端ないのだ。よく見るとロビーの壁に一カ所覗き窓が空いている。「これは場内でトラブルを起きていないかを見るための穴です。一人でやっていると、特にフィルム回している時代は、イチイチ場内に入らなくてもいいように親父が作りました。いずれ私が一人でやるのを見越していたかも知れませんね(笑)」昔は受付の横に売店もあったが人件費を削減するためタバコも何も売らなくなった。ロビーに置いてある年代物のコーラの空き瓶入れは劇場に人が入っていた頃の名残だ。



昔、裏手には首里バスの修理工場があり、そこの従業員が仕事終わりに来ていた。また首里城が琉球大学だった頃、近所に学生寮があったことから周辺も賑わっていたそうだ。ところが、沖縄が返還された昭和40年代には映画も斜陽の時代に突入。「最初は何でも入るという時代でしたけど、私の父(金城田眞氏)が引き継いだ頃は人も入らなくなっていたね」そんな劇場の窮状を救ってくれたのがピンク映画であった。しばらくは一般映画と交互に上映していたが、当時の反響は想像以上に凄かったという。最盛期には那覇市内に成人映画館が3〜4館あったにも関わらず、満席状態が続いたというから当時の熱狂ぶりが伝わってくる。「沖縄は本土よりも遅れてブームが来るので“トルコ行進曲”や大信田礼子さんの“ジェラシーゲーム”といった後期の作品が入ったのを覚えています」ピンク映画ではないが、“肉体の門”と“白蛇抄”を組み合せて熟女大会と銘打ったところ多くのお客さんが入ったそうだ。当時、映写を任されていた金城氏は映写室の窓から見た満席の場内を思い出す。「映画館はね…たくさんないとダメなんですよ。不思議な事に1館や2館になると余計お客さんが来なくなる。居酒屋のようなもので映画館のハシゴをしたり、看板を見てどれにしようか選んだりするのが良いんですよ」やがてビデオの普及によって成人映画も徐々に衰退。「そんな事の繰り返しですよ」と金城氏は笑う。

金城氏が高校を中退して映写の仕事を手伝い始めたのは17歳の頃、仕事場である映写室は2階席の後方にある。フィルム時代は焦点を合わせるために場内のあちこちに座って確認していたという。カーボンの時代から映写を担当して40年…昨年、フィルムからデジタルに移行したばかりだ。それでも納得する色に調整するまで1年は掛かった。勿論、年代物のフィルム映写機も大切に残している。「本当はフィルムの色合いは奥深くて良かった。明るさも3キロのランプを使っていたから観ていると物語の中に入って行くような感じになるんです。暗いシーンでもキレイでしたよ。ただ、フィルムがウチに来る頃には日本各地を廻ってからなので傷がついて劣化もしている…それでも、やっぱりフィルムの色が良いね」現在はOP映画三本立て興行を3日切り替えという驚異的なサイクルで回している。金土日と月火水で3作品ずつ上映して木曜は休館日。お客様は常連がメインだが、作品の本数が増えた事で初めてのお客様も増えた。こちらの名物は何と言っても、金城氏が考えるユニークな特集上映…かれこれ20年以上もこの上映形態は続いている。「フィルムは送料も掛かるし、傷のチェックもしていたらとても回らない。確かにフィルムが無くなるのは感慨深いですけど、寂しいなんて言ってられないです」

料金は大人800円、毎月1日とラスト2本は500円という格安の料金設定。団体や夫婦・カップルで来場されても一人500円というのが嬉しい。舞台挨拶やイベントも多く、『首里劇場』ファンの荒木太郎監督は、お客様との距離を近づけるため“お話し会”と称したイベントを開催している。「OP映画は企画が面白いし、女優さんの演技も上手いですよ。だから、もっと若い人に観てもらいたいんですけど、AV慣れしているからわざわざ映画館にまで観に来ない。それに、AVでハードな絡みを見ている人がピンク映画を観ると物足りないのかな?でも、私が売っているのは映画ですからね。絡みだけじゃない映画ならではの愛と笑いと感動を映画館で体感してもらいたいです」という金城氏だが、これだけはダメ!と固く禁止している事がある。「映画館というのは懐が深いものだから、どんなお客さんでも歓迎します。でも…ゲイの痴漢だけはダメです。私も場内で観てますから、痴漢行為を見つけたら追い出すようにしてます。じゃないと、普通に成人映画を観たいという人が来なくなっちゃうんですよね。安心して観に来れる劇場にしたいので、そこだけは厳しくしていますよ」


『首里劇場』を訪れたら是非見ていただきたいのがトイレ。「ビックリしますよ」と案内してくれた1階のトイレは、男性用個室が1つと女性用個室が3つ。便器というものは存在せずポットン式の穴が空いているだけ。汲取式なんだけど換気は天井に大きな通気口を開けているから臭くはない。「女性のお客さんなんて普段は来ないから必要ないんだけど…保健所のお達しで女性用を作らなきゃ認められないって言うので、私が書きました(笑)」それでも人間のエロ魂は大したもので、女性用と書いた翌日には壁にのぞき穴が開けられたそうだ。

「要するに映画館は見世物小屋だから出し物が違えばお客さんはまた戻って来るんです。ピンク映画を残しつつ何か新しい事が出来ないかを考えているところです」この考えに意外なところから反応があった。ここ数年、活発に行われている音楽ライブだ。“渋さ知らズ”や地元沖縄を中心に活動を続ける“やちむん”など数多くのアーチストからオファーが続いているのだ。その時ばかりは普段、成人映画を観ないような若者たちが大挙して押し寄せる。ここで音楽ライブを開催するというのは、アーチスト側から持ちかけてきたとか…確かに古い成人映画館で音楽ライブという発想はロックだ。

「最後まで見届けて死ねたらそれでイイかな…と。無理にリニューアルして入場料を上げた挙げ句に潰れるくらいなら、逆に、古い・汚い・臭いをウリにしていこうと思っています」お客さんが一人もいない時でも場内に入って映画を観ている金城氏。「映画館は私の元気の源ですから無くしませんよ」と語気を高める。「ピンク映画館をやっているからこそ元気なんです。感動しながらビンビン!笑いながらビンビン!怒りながらビンビン!涙しながらビンビン!ってね(笑)本当はお年寄りが観て元気になってもらいたいですが…以前は大勢来ていたのに最近は減ってしまいました。若者も刺激が足りないのか、20〜30分ですぐ出て行ってしまう…。だったらお客さんが一人も来なくなるまでやり続けます。映画館でポックリ逝けたら本望ですよ」と高らかに笑う姿が印象に残った。(取材:2016年1月)



【座席】 213席 【住所】 沖縄県那覇市首里大中1-5 2022年6月5日を持ちまして閉館いたしました。

  本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street