3本のJR線と京浜急行線が乗り入れる巨大ターミナル駅の川崎。古くからのアーケード型商店街が今も残る東口の一画に、イタリアの古都を彷彿とさせる小さな街がある。テラコッタの柔らかな風合いの街並は、トスカーナ地方の丘陵に造られたヒルタウンをモチーフとしている。石畳のメイン通りにあるオープンカフェでは、年輩の夫婦が、柔らかい初夏の日差しを浴びてくつろいでいる。その街の中央にあるスタジアム形式の噴水広場では定時になると名作映画のテーマ曲と共に噴水のショーが開催される。ここは、平成14年11月23日にオープンしたイタリア語で“小さな街”を意味する川崎のランドマーク『ラ チッタデッラ (LA CITTADELLA)』だ。 六本木ヒルズ等も手掛けたジョン・ジャーディ氏のデザインによる街の構造は、直線ではなく曲線の組み合わせで出来ており、どこに出るのか分からない幾重にも連なる路地は迷路の美しさを持つ。その噴水広場の奥にあるガラスの塔…マッジョーレと呼ばれる施設に、12ものスクリーンを有するシネマコンプレックス『チネチッタ』がある。オープンの翌年以降、4年連続で年間動員数と興行収入において日本一を達成し、常に川崎市における興行シーンをリードしている。 |
かつてこの場所は、“ミスタウン”と呼ばれた映画街だった。大小10の映画館で構成された街は、日比谷や新宿にあるような華やかさはなく、1本奥の路地には成人映画館があったり、その猥雑な雰囲気が何とも言えない魅力があった。大学時代、就職活動の帰りに観た“ロッキー4”を今でも鮮明に覚えている。まだシネコンという呼び名が日本に無かった昭和62年に、7つのスクリーンを有する『チネチッタ』は産声を上げた。ひとつのビルが丸ごと映画館で、上階から順番に降りて行けば映画のハシゴが出来る…これは映画ファンにとって衝撃的な出来事だった。制定されて間もない映画の日には多くのシネアストたちがビル内を行き来する姿が見られたものだ。また当時の映画館と言えば大きな絵看板を掲げるのが主流なのに対し、『チネチッタ』の外観はファッショナブルで、壁面をネオンで飾っていたのが新鮮だった。その翌年には大型ライブホールの先駆けと誉れの高い“クラブチッタ”がオープン。毎年大晦日にはカウントダウンイベントを開催するなど映画街からサブカルチャーの聖地へと変貌を遂げ、現在の『チネチッタ』の礎を築いた。 “ミスタウン”から数えて3度目の進化を遂げた『チネチッタ』には、高校生以上を対象としたチネカードというポイントカードと、子供向けのちねっ子倶楽部Pカードがある。共に映画を1本観賞するとポイントがたまり、規定のポイントに達すると、無料観賞やドリンク、パンフレットなどと引き換える事が出来る。1階のチケット窓口(今では珍しい対面販売で、手際良く丁寧な接客がありがたい)で当日券を購入。エスカレーターで2階に上がると、映画グッズを販売しているショップとコンセッションスタンドがある。ロビーは天面から注がれる自然光が柔らかく、待ち時間を心地良く過ごす事が出来る。少し時間に余裕があれば、カフェや雑貨店が入る施設内をブラブラ散策するのも楽しい。入場後でも中にコンセッションがあるので、フードやドリンクを買い忘れても外に出なくても購入が可能だ。そして…『チネチッタ』の設計が優れているのは、映画が終わっても、いきなり現実の世界に戻されないという空間演出。最上階から降りる際は、一旦、エスカレーターから緩やかなループをぐるりと廻らなくてはならない。実は、この遠回りする時間がとても大事なのだ。壁面に飾られたフェリーニの映画のパネルを眺めながら、映画の世界に浸っていられるのが嬉しい。 |
それから15年が経ち、今も変貌を続けてる川崎。駅周辺の大規模な再開発によって工業の街から商業の街に生まれ変わった。東京や横浜からのアクセスが良く、人が集まり易い川崎は、まさに理想的な環境にあったのだ。そして、映画を観るならここ!と、長年、地元住民に愛されてきた『チネチッタ』もまた変貌を遂げた。それが、平成28年9月17日にお披露目した『チネチッタ』オリジナルの進化形シネマサウンドシステム“LIVE ZOUND(ライヴ ザウンド)”だ。正に音に飲み込まれる…とはこの事。とにかく未体験の方は一度体験してもらいたい。これは、音響のプロ集団“クラブチッタ”の専門スタッフと、世界最高水準を誇るドイツの音響メーカー“d&b社”のシステムによって実現したプロジェクトで、こけら落としの“シン・ゴジラ”と“君の名は。”では上映後に拍手が起こったほど。「この光景を場内で見た時は感無量でした。」と語ってくれたのは番組編成と宣伝を担当されている藤本恵弘氏だ。 |
この時、殆どの観客がリピーターだった場内で沸き上がった拍手は作品に対してだけではなく、間違いなく今まで体験した事がない音響に向けられたものだった。「僕らが作った音響に対して皆さんが賞賛してくれたのが何よりも嬉しかった」その音響の凄さはジワジワとSNSで拡散を続け、中には、この映画を“LIVE ZOUND(ライヴ ザウンド)”で観たい!とツイートされたり、遠方から噂を聞きつけて来場されるファンも増えている。「ご存知の通り、川崎は全国でも有数のシネコン激戦区と言われています。逆に言うと、映画館に来るお客様がたくさんいらっしゃる場所なんです」確かに駅を中心に徒歩5分圏内に3サイトのシネコンというのは全国でも数が少ない。15年前は独壇場状態だった『チネチッタ』も、こうした状況の変化に伴い競合との差別化が必要となった。 「そこで思い立ったのが、既存のものではなくチネチッタ独自の音響を開発出来ないだろうか…という事でした」通常、コンサートホールやスタジアムで使われている音響システムを映画館に設置。作品の特性に合わせた音のオペレーションをする事で、全国の映画館でココだけでしか体感出来ないオリジナルのサウンドが実現した。例えば“ラ・ラ・ランド”のようなミュージカルではハーモニーをキレイに再現するハーモニクス、“マッドマックス 怒りのデス・ロード”のようなアクションものには迫力のある音圧を感じるハードコア、そして繊細な音楽と迫力のあるシーンが混在する特性を合わせ持ったハイブリッド…と、音響を3つのタクティクスにカテゴライズして、作品ごとに細かくカスタマイズされている。「川崎だけで考えると商圏に限りがあります。でも日本でチネチッタだけ…となれば、口コミで時間は掛かりますが、必ず効果はあると思うんです。そのためには来てくれたお客様をガッカリさせないこと。最終的には全国から噂を聞きつけて当館に来ていただければ本当に嬉しいです」 |
平日は朝早くから、ご年輩のご夫婦や女性グループが列を作り、休日にはファミリーだけではなく、若い人たちの姿がかなり目立つ。藤本氏の言葉通り、川崎は県内でも映画館人口が多いのがよく分かる。「また、チネチッタはアニメーションが強いんです。アニメファンの方々から聖地と言っていただけるのは嬉しいですね」昨年2月に行った“KING OF PRISM”の応援上映は、一番大きな8番スクリーンが満席になるほどの看板作品となり、最終的には8ヵ月のロングラン興行となった。お客様からもこうした取り組みに対して好評価をいただいているという。「場内の装飾に力を入れたり、スタッフがキャラクターの格好で前説をしたり(笑)、スタッフ全員楽しんでやっています。そこを評価していただけたと思います。先日は劇場宛に、“長く続けてくれてありがとうございます”と、お花を贈ってくれた方もいらっしゃいました」 「どんなにお金をかけて宣伝をしても、それだけでお客様が来る事は無いと感じています。それよりもお客様が信用するのは、友だちの声やツイッターに書かれている言葉だと思います。今では、大ヒット上映中!という宣伝文句だけでは誰も動かなくなりました」と、藤本氏はこの15年を振り返る。SNSの普及で、あっという間に評判が拡散される世の中だけに気を抜けなくなった反面、真剣に取り組んでいれば、必ず評価となって反映されるようになったという。その事を“LIVE ZOUND(ライヴ ザウンド)”に来るお客様から教わったと藤本氏は言う。「上映作品を選ぶ時も、このシステムに合う作品か…というところも見るようになりました。今年の夏以降は大作が目白押しなので、楽しみな反面、気を抜けませんね」(2017年5月取材) |