北海道の中南部に位置する苫小牧市は、空の玄関口・新千歳空港に隣接し、海の玄関口・苫小牧港を有する臨空・臨海工業地帯である。昔の苫小牧と言えば札幌から室蘭・函館方面と日高方面(現在は廃線)へ向かう中継駅というイメージしか無かったが、近年は、市内にあるウトナイ湖が、渡り鳥の中継地と水生植物が群生する動植物の宝庫として知られているため多くのナチュラリストが訪れるようになった。ウトナイとはアイヌ語で「小さな川の流れが集まるところ」を意味しており、豊富な水源に恵まれている事から明治時代から製紙工場が次々と進出して現在の街が形成された。駅のホームから見える製紙工場の煙突から豪快に出てくる水蒸気は、苫小牧市を語る上で欠かせない名物と言って良いだろう。札幌からJR線快速に乗って1時間ほどというアクセスの良さと、空港からリムジンバスが直通運行している事から苫小牧は近年注目を集めている街となった。 駅からシャトルバスで10分程のところにシネマコンプレックス『ディノスシネマズ苫小牧』がある。周辺は区画整理された住宅地で生活するには快適な街並みが広がる。2005年4月28日にイオンモール苫小牧の2階にオープン以来、多くの近隣住民に慕われて来た映画館だ。「私がここに入社したのは映写スタッフのアルバイトとしてでした」と語ってくれたのは支配人の杉保智氏だ。「当時はまだフィルムの時代で、ここで一番最初にフィルムを回したスタッフの一人なのです」他にも映写担当者がいたものの経験者は杉氏だけだったためバイトながらも映写室を仕切る役割を与えられてのスタートだった。前職で市内にあった映画館”苫小牧日劇”で働いていた杉氏は映写技師としてのスキルをこの映画館で培った。 |
杉氏は高校を卒業後、偶然入ったシネコンと一本の映画によって人生が一変する。就職して仕事に打ち込めない日々を過ごし、会社を辞める直前にあてもなくドライブしていると小樽の商業施設に辿り着いた。「当時の私は大きな商業施設が好きだったので、何となくその中を歩いていたら行列が見えたんです。何だろうと近づくと段々暗くなってポップコーンの匂いがして…そこで初めて映画館と気づいたんです」その時の列が”千と千尋の神隠し”だった。「当時は取り立てて映画が好きという事ではなかったのですが、列に加わってその映画を観たのです。勿論、映画にも感動しましたが、何より他の観客が、楽しかったね…とか、また来ようね…と言っている姿が印象に残って、シネコンで働きたい!と思ったのです」 杉氏は会社を辞めて市内のゲームセンターで働きながら機会を待っていた。1年ほど経ったある日、「映画館がついに募集しているぞ!」と友人から情報が飛び込んできた。それが”苫小牧日劇”との出会いだった。早速、面接に行ったところ映写担当として雇ってもらう事が出来たのだ。「地元の苫小牧にある映画館で就職出来たのは本当に嬉しかった」2スクリーンを有する”苫小牧日劇”は、近所に2スクリーンの”セントラル映劇”という映画館も経営しており、杉氏はいきなり4スクリーンの映写を掛け持ちする事となった。「その時の映写技師さんは、まだフィルムが可燃性の時代から技師をされていた方で、色々と教えていただいたので一番良い時代に入れたと思います」その頑張りが認められて21歳の若さで副支配人を任された。杉氏は小樽のシネコンで感じた思いを胸に抱きつつ映写技術を積み重ねてきた。「苫小牧は40万商圏なので、いつかはここにもシネコンが出来るはず…と、ずっと思っていて、シネコンが出来たら絶対にそこの支配人になる!と夢を持ち続けていました」その時、建設中のイオンモール苫小牧にシネコンが入るという新聞記事を見つけた。 |
”苫小牧日劇”で副支配人を任されていた杉氏がシネコンに移るということはアルバイトから出直すという事。「それでも夢を追いかけたかったので…社長には申し訳ないのですが、辞めさせてもらったのです」念願の『ディノスシネマズ苫小牧』で映写担当として働き始めた杉氏は当時をこう振り返る。「暗い映写室の中でフィルム掛けて、その映画をお客様が楽しかった思い出として持ち帰ってくれる。お客様から見えない場所で思い出を提供しているポジショニングにいる自分は影の立役者だという気持ちで続けていました」その後、映写担当からフロアの接客を経験して『ディノスシネマズ室蘭(当時は室蘭劇場)』と『ディノスシネマズ旭川(2022年9月19日に閉館)』で経験を積み重ね、9年前、遂に夢が叶って『ディノスシネマズ苫小牧』の支配人として戻って来た。 『ディノスシネマズ苫小牧』の来場者は、千歳や恵庭に住んでいる人たちが多く、週末になると静内・日高方面からも来る人が増える。こうして見ると苫小牧は商圏が結構広い事が分かる。「映画好きのお客様は映画の日とかサービスデーに何時間も掛けて来られて、2本〜3本まとめて観て帰られるんですよ」コチラの特長としてはリピート率が高く、若い方たちもポイントカードを作って観に来られたり、スタッフに挨拶されるご夫婦の常連さんもいるそうだ。ロビーで開場までの様子を見ていると来場されるお客様の年代が幅広いということに気づく。カップルもいれば4〜5人のグループで来ている中高生もいたり…かと思えばご年配の夫婦やファミリー層などあらゆる世代が利用されているのだ。やはりイオンモールに併設されているからファミリー向けの映画が強いそうだ。映画を観終わったお客様から「面白かった」とか「また来るよ」という言葉を掛けられると「どんなに疲れていても体力が回復する。そんな時はつくづく映画館は自分の天職だなって思います」と顔を綻ばせた。 |
『ディノスシネマズ苫小牧』がオープンしてから現在に至るまで全てが順風満帆というわけではなかった。オープン時には経営母体のスガイエンターテインメントの業績不振によって幾つもの会社が経営を引き継いできた。そんな状況でもお客様により良い環境で映画を楽しんでもらおうと施設の環境整備などを推し進めて、少しずつ常連のお客様の数も増えていた。そんな中、2018年に北海道胆振東部地震が発生。北海道全土のブラックアウトによって営業にも影響が出た。そして、そこに追い打ちをかけたのが新型コロナウイルスの感染拡大だった。施設の臨時休業や時短営業によって来場者も大幅に減少してしまったのだ。「コロナ禍は本当に大変でした。映画館は充分な換気がされていますとお伝えしても、密閉空間に知らない人と一緒に過ごす事を敬遠された方も多かったのです」その時、ゲームチェンジャーとなったのが”劇場版 鬼滅の刃 無限列車編”だった。「コロナ禍で満席が続いた映画なので、やっぱり観たい映画には観に来てくれるのだと証明してくれた映画でしたね。幸いにもウチから感染者が出なかったので、映画館は大丈夫というお墨付きを与えてくれました」 それでもコロナは劇場経営を大きく圧迫。須貝興行時代からシネマ事業を運営するスガイディノスは、2022年に民事再生法適用の申請を余儀なくされた。「ちょうど夏休み興行が始まる前で、上映作品が限られてしまい”トップガン マーヴェリック”が公開して10日くらいで配給会社はデータを引き上げてしまったんです。ずっと楽しみにしていた地元のお客様からも驚きの声が多く上がりました」新作の上映は全て保留となりロビーからは次回公開のポスターが全て外された。杉氏はそんな当時の事が忘れられないと語る。「その時は本当に悔しくて、絶対に再生してやる!と思い、ポスターが入っていないフレームの写真を撮りました」とスマホを見せてくれた。「そんな時に下山天監督が”アライブフーン”を持って舞台挨拶に来てくれて…本当にありがたかったです」8月には民事再生も通過して再び新作が上映出来るようになると、何よりも一番喜んでくれたのが常連のお客様たちだった。口々に「戻って来て良かったね!」とか「上映してくれてありがとう!」という言葉が寄せられたのだ。「”ONE PICE FILM RED”で満席になった会場を見た時は嬉しさと同時に新時代の幕開けを感じました」2022年10月1日からは全国にシネマコンプレックスを展開する佐々木興業のグループ会社として設立された株式会社ディノスシネマを新体制として現在に至っている。 |
コロナが落ち着いて初めての春休みが過ぎた。新体制となってから以前には出来なかった事や作品を掛けられるようになった。2023年11月にはロビーを全面リニューアルして、コロナ禍で途絶えていた地域との交流やイオンモールとのコラボなど順次、色々な企画を再開させて行く予定だ。休止していたイベント上映も再開しているが、ただコロナ禍で制約を受けた期間はあまりにも長過ぎた。ソーシャルディスタンスで人との交流を断つという状況に慣れてしまったため、若者たちはコールアンドレスポンスの生中継で最初のうちはなかなか声を出せなかったのだ。「皆さんが声を出さないのでMCの方が、”声が小さいですよ!もっと声を出していいんですよ!”と煽っていたのが印象的でした。久しぶりだったので声を出すことに違和感を覚えたのでしょうね」これからは応援上映やライブビューイングも再開して止まっていた時間を少しずつ進めて行きたいと考えているという。 映画館人生を歩み始めて今年で20年目を迎える杉氏にとって、思い出深い出来事は宮崎駿監督の”崖の上のポニョ”だった。「個人的な話ですが、映画館で働きたいと思うキッカケを作ってくれたのが”千と千尋の神隠し”だったので、映写を担当する自分がジブリ作品の中でも宮崎駿監督作品のフィルムを自分の手で掛けたかった」自分で掛けるジブリ作品をお客様に観てもらうのが夢だったという杉氏は、他の映写担当に頭を下げて映写を譲ってもらったという。 そんな杉氏が日頃から抱いている思いは「映画館だけでしか体験出来ないものを感じてもらいたい」という事だ。以前”スターウォーズ フォースの覚醒”の初日に満席の場内から上映が終わると、誰ともなく拍手が起こった事が今も強く印象に残っているという。「それそこが映画館でしか体験出来ない事だと思います」その作品のファンが敬意を持って観賞して観終わった時に自然と拍手が生まれる…劇場内を包むその一体感は確かに映画館でなければ体験出来ない。「映画館で映画を観るという事は何を観たか?という事も大事ですけど、誰と観たか?とか、どこで観たか?という当時の思い出って一生残るものだと思うのです」例えば、何年か経ってテレビで放映された映画を見た時に、映画館での思い出がフラッシュバックで蘇ってくる。「あの時、場内で湧き上がった拍手も同じで、私たちの仕事ってそういう思い出を支えている事だと思うのです」(2024年4月取材) |