瀬戸大橋で岡山から1時間で結ばれる四国の玄関口・香川県高松駅を降りると港に隣接しているからか、ほのかに香る潮風が心地良い。歩いて3分ほどの所にある琴平電鉄・高松築港駅から通称ことでんに乗ってコトコト…二つ目の瓦町駅で降りる。ここが昔から高松市民生活の中心部で、駅から真っ直ぐ伸びる活気あるアーケード商店街のトキワ街を抜けた辺りに二つの映画館『ホールソレイユ』と『ソレイユ2』がある。前身は現在の場所に昭和20年に設立された460席を有した“高松大映劇場”という大映の封切館だ。 |
「設立したのは僕の祖父で、大映以外にも色々な作品をやっていましたよ」と語ってくれたのは代表の詫間敬芳氏。詫間町の出身である創業者のお爺様は映画全盛期には11館もの映画館を経営していたという。“高松大映劇場”が設立された昭和20年と言えば、まさに終戦直後。一代で財を成し、塩田や建築業など幅広く展開していた先代は、壊滅的な打撃を受け荒廃していた人々に必要なのは夢のある映画であり、映画が一番の成長産業になると考えた。敗戦によって通貨が閉鎖され旧円が使えなくなり、物資が欠乏していた中、ありったけのバラックの資材を集めて急いで映画館を設立。空襲で焼け野原だった高松駅から映画館がよく見えたそうだ。突貫で完成した劇場は掘建て小屋で、雨が降れば雨漏りのため傘をさして映画を見る状況だった。「それでも娯楽に飢えていたんでしょうね…連日大入り満員だったらしいです」まだ周辺のトキワ街や南新町の商店街が闇市だった時代、街は荒れ果てていたけれど活気に満ち溢れていたと詫間氏は振り返る。 また当時の場内は今で言うとテーマパークのようだったと、子供心にその熱気に圧倒されたのを今でもよく覚えていると続ける。「“鞍馬天狗”の時は椅子に座れない人たちが土間に新聞紙や風呂敷を広げてお弁当食べながらスクリーンにかぶりついて、アラカンが登場すると場内は割れんばかりの大拍手ですわ」圧倒的な映画人気に先代は次々と郡部に東映、日活、松竹の封切館を設立。どこのテケツ(チケット売場)でも足下に置いたみかん箱に入場料のお札を押し込んでいた。「昭和20年代は熱狂的に映画は受け入れられ、昭和30年代になって世間が落ち着いてもテレビが普及するまでは安定していました」市川雷蔵の“眠狂四郎”や“陸軍中野学校”、勝新太郎の“悪名”や“座頭市シリーズ”、田宮二郎の“黒の試走者”といったヒット作品をコンスタントに送り続けていた大映だが、東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年あたりから翳りを見せはじめる。 |
最盛期には、高松市の南側は邦画の封切館、北側には洋画の封切館が集中するという分布図が形成されており、洋画の輸入が自由化されてから映画ファンは日に日に増えてきたという。映画業界も順調に発展し、“高松大映劇場”では、新東宝作品も扱うようになる。ところが昭和39年の東京オリンピックを境に、テレビの普及により急速に業界全体が衰退を始め、邦画大手の大映と日活が倒産するというニュースが日本の興行界を震撼させる。日を追うごとに集客が落ちていた劇場を救ったのは二代目となった詫間氏のお父様が決断した日活ロマンポルノ上映館への転身だった。「成人映画をやるという父の選択は、狭い街だから世間体は悪くて苦労したはずですが、利益は上がっていたと思いますよ。何よりもフィルム代が安かったから、お客が入った分、利幅が以前とは比べものにならないくらい良かった」目抜き通りという立地の良さも手伝って連日満員続き、やがて新東宝、大蔵の成人映画をかけるようになる。 詫間氏が劇場の仕事を手伝うようになったのは昭和48年のこと。まだまだ成人映画の勢いは衰えず活況を見せていた昭和53年にお父様が他界。三代目として映画館事業を引き継いだ詫間氏が最初に取り掛かったのが、単独の映画館から複合ビルの建設だった。「設備が古い上に場内が広すぎて冬の暖房コストがかさんでいたんです。場内に隙間風が吹き込んで灯油代だけで月に20〜30万はかかっていたので」意を決して昭和58年に現在のソレイユビルに建て替えた。4階の『ホールソレイユ』では洋画メジャー系を中心とした一般作品、地下の劇場『ソレイユ2』では成人映画を継続していた。 |
「今となっては、成人映画を続けたのが仇になってしまった。同じフロアに映画館を作れば、トイレや映写室を一箇所に集約できるから建築コストも安く済むんだけど、さすがに同じフロアで一般映画と成人映画を隣合わせに出来ないからね」人目につきにくい正面から横に入った場所に『ソレイユ2』の入口があるのは、そういった理由からだ。やがてビデオが普及し始めると成人映画に来る客も少なくなり、平成2年に成人映画から撤退してから単館系とドキュメンタリー作品を中心としたプログラムを組んでいる。年輩の女性客がメインだけに、“鑑定士と顔のない依頼人”や“大統領の執事の涙”といった作品に人気が集まる。詫間氏は、アカデミー賞にノミネートされた作品は受賞の有無に関係なく、必ず上映する…というのをポリシーにしているという。「香川県の県庁所在地でアカデミー賞のノミネート作品を上映しないのは私のプライドが許さない。ノミネートだけで終わったとしても必ず上映します。長いスパンで見た時、ウチがそういう映画をやる劇場というのがお客様に定着すればイイんです」 一時期は、近隣にシネコンが3つも出来たため『ホールソレイユ』を休館していたが、シネコンが1つ閉館した事と、山口県にあった映画館からデジタル映写機を譲ってもらえる事になったため最近になって再開したばかり。テレビからビデオ、そしてシネコンの上陸と衛星放送の開始…という技術革新によって映画館が今まで築いてきた基盤が全て覆されてしまったが、結局はスクリーンで得られる感動は昔と変わっていないのでは…と詫間氏は語る。「映画で感動しようと思っても家で寝転んでビールを飲みながら生活の雑音の中で観たって伝わるものも伝わらない。いくら入場料が高いって言っても1800円で人生が変わるような感動を得られるものって、そうそうあるもんじゃない。若い人には長い人生の2時間くらい映画館に費やしたって決して損にはならないから観に来てもらいたいです。まぁ、社会貢献として元気なうちは1本でも多くの良い映画を香川県で上映していきますよ」と熱く語る詫間氏は根っからの興行人だった。(取材:2014年8月) |