「自分の映画館で自分が観たい映画をやりたかったんです」愛媛県松山市に唯一残るミニシアター『シネマルナティック』の代表である橋本達也氏は、朝の上映が始まり、静まり返ったロビーで語り始めた。「自己資金130万円…まぁ資金というよりも貯金がそれだけだったのですが。資金が無くなるまで遊ぶつもりで映画館をやってみようか…という気持ちでした」橋本氏が興行に関わるキッカケとなったのは河原町にあった市民出資の映画館“フォーラム松山”のオープンだった。「出資者向けの説明会に参加したのですが、スタッフならば自分でも出来るのでは…と思い、オーナーに参加させて欲しい!と頼み込んだのです」オープニングスタッフとして採用された橋本氏にとって、この経験が、その後の映画館経営に役立ったと振り返る。「配給会社との交渉や映写から宣伝に至るまで…夜中に看板を付けて回ったり。ヘトヘトになるまでやりました」ところが設立してから2年経った1990年に資金繰りが上手くいかず“フォーラム松山”は閉館してしまう。閉館までの1年、支配人を任された橋本氏は、その時の重圧で体重もげっそり落ちてしまった。「閉館が決まると気が休まったんでしょうか…体重がドンドン増えてきて元に戻りました」と笑う。 金銭的に恵まれなかったものの映画を仕事として働ける喜びを感じた橋本氏は、一生この仕事を続けよう…と、ここで決意を固めた。それから1年、広島の名物映画館“サロンシネマ”で更に経験を積んで、再び松山に戻って自主上映を始める。OS興行グループが運営する“シネリエンテ”という洋画のロードショー館で、21時以降のレイトショー枠を借りてアート系の作品をブッキングした。「自分の好きな作品を入れさせてもらって…レオス・カラックス監督の“ポンヌフの恋人”なんか、昼の興行より動員数が上回って、後半は回数を増やしたんですよ」現在の館名にあるルナティックという名称は、この時のレイトショー上映から来ている。 |
「そんな時“フォーラム松山”が入っていたビル自体が映画館仕様の設計なので、普通のテナントが入りづらく、ずっと空いていたらしいんです」殆ど居抜きの状態で映写機などの設備を全て保証金無しでそのまま貸してくれて、1994年10月1日に『シネマルナティック』をオープンさせた。上映作品もデレク・ジャーマンから市川雷蔵特集といった新旧取り混ぜて、とにかく自分が観たいと思うものを積極的に上映した。3ヵ月が過ぎたあたりで気付けば資金が底をついていた。「フィルム代を払ったら家賃が払えないみたいな(笑)借金して誰かに迷惑を掛けてまで続けようとは思っていなかったので、ビルのオーナーに止める相談をしたんです。そしたら…家賃を半分にするから、月の半分だけ営業するという形で続けてみないか?と言ってくれたんです」愛媛ではまだミニシアターブーム真っ只中…何とか続けているうちに、ウォン・カーウァイ監督の“恋する惑星”やアート系のヒット作が出て来て、何とか維持出来るようになった。配給会社からも助けられた。やがて常連のお客様も増え、地元出身の鴻上尚史氏や女優の片岡礼子さんらが映画館を応援してくれた。ヒット作にも恵まれて1日の上映本数も二部三部興行として2作品から3作品と増やし、少しでも多くの映画を観てもらえるようにハシゴ割引や回数券を作った。 オープンから10年が経過した2005年7月に、マツゲキビルのオーナーから誘われて、現在の湊町に映画館を移転する。街の中心部を走る松山銀天街から少し脇に逸れたところにある打ちっぱなしのコンクリートの壁面が印象的なマツゲキビルは、橋本氏がレイトショーの自主上映を行った“シネリエンテ”があった場所…言ってみれば『シネマルナティック』発祥の地でもある。ビルの前には何本もの大衆演劇ののぼりが立つ…そう、このビルの6階には“松山劇場”という芝居の劇場がある総合興行ビルなのだ。2階に上がりエントランスをくぐると、以前の映画館のまま懐かしい市松模様の床と、ロビー奥には今はもう使われる事がなくなったフィルム映写機が置かれている。受付のラックには無造作にチラシやパンフレットが入れられ、棚にはレアもののパンフレットが並ぶ。かつて橋本氏はそこにフィルムリワンダーを設置して巻き取り作業を行っていた。 |
最近はカンヌでパルムドールを受賞したというだけでは、お客さんが全然入らなくなったと橋本氏は言う。「アカデミー賞ですら微妙ですよ。逆に、小さな賞でも日本映画が海外の映画祭で受賞してテレビで取り上げられたら、ようやく人が動いてくれるんです」シネコンが単館系の作品も扱うようになり、ヒットしそうな作品は廻って来なくなったところに、ミニシアターブームを支えていた20〜30代の女性客が、この10年でめっきり姿を消してしまった。「お客様の環境も変わり映画館に行ける状況じゃなくなったのも一因でしょうね。赤字を埋めるため少しでもお客様の来やすい街中に可能性を求め引っ越しました」と橋本氏は移転の理由を述べる。そして…いつの間にか20年を越えていた。不入りが続き、覚悟を決めた時でも何とか色々な映画に救われた。最近も歴代興行成績一位だった“シュリ”の記録を抜いて“陽光桜”という御当地映画に多くの人々が訪れた。「意外ともっているんですね…って、みんな不思議がります(笑)」 この数年は、上映システムが一新したため、全国の興行主が存続の決断を迫られた時代だった。コチラもシアンダイフィルムに対応するエキサイターの交換やアンプの交換に費用がかさみ、資金繰りが厳しくなってきたところにデジタル化が追い打ちを掛けた。「振り返る事はあまりないんですけど、ようやって来たな…と思います。結局、映画館を続けて行くには、人を雇う余裕が無いので、自分がやれる範囲で無理してはいけないと思いました」お客さんが少ない火曜日を休みにして他所の映画館に行く時間に充てる…本当に映画館で映画を観る事が好きなのだ。そんな橋本氏にとって至福の時間は、夜、誰もいない場内で自分の好きな映画をブルーレイで観る事。好きな映画を自分の映画館のスクリーンで観るために始めたのだから、こんな贅沢な事はない。「何とか今は食べるだけは稼げているので、もう少し続けられたらイイな…と」まずは自分の好きな事を…それが長続きさせる大事な事かも知れないと思った。(取材:2016年4月) |
【座席】 160席 【音響】SRD 【住所】愛媛県松山市湊町3-1-9マツゲキビル2F 【電話】089-933-9240 本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street |