新潟市は信濃川を境に、川向こうにある江戸時代より栄えて来た繁華街の古町地区と、バスターミナルと上越新幹線の開通により昭和40年以降から新しく形成されてきた万代地区…といった新旧市街地に分けられる。戦後、高度経済成長期を迎え県下最大の娯楽街・歓楽街となった古町界隈には、当然の事ながら15館近くの映画館が軒を連ねた。そんな古町にあった“名画座ライフ”が、昭和60年3月に閉館する。日本のアチコチで映画館が年々姿を消して行った時代、新潟市にあった客席100席ほどの小さな映画館が無くなる…ただそれだけのはずだった。しかし、事態はある映画評論家によるひと言で一変した。発言の主は故・荻昌弘氏。当時、新潟日報で映画評を掲載していた荻氏は、「県都にこれだけの映画館を維持しないで、文化など口に出来るのか」という檄文を県民に向かって述べたのだ。そして、その言葉はまた、一人の男の人生を大きく変えてしまった。 その記事に書かれた言葉を自分の責任として感じた齋藤正行氏は、自分がやらなくては…と早速、勤めていた会社を辞めて映画館設立に向けて行動を起こす。それが「新潟・市民映画館建設準備会」だった。会員は映画ファンだけではなく演劇や音楽などの文化芸術活動に携わる人々や、学生から年輩まで様々な年代と職種の人々が集まった。“名画座ライフ”の閉館から4ヵ月後には、会の旗揚げとして活動大写真上映会を開催。先代の弁士・松田春翠氏を招いて小津安二郎監督の“生まれてはみたけれど”など3本の無声映画を上映する。その後も“伽耶子のために”の上映やトークイベントを開催しながら、地道な募金活動を行って来た。新潟市内に自分たちの観たい映画を掛けられる映画館を…そうした市民の思いがひとつになって何とか資金の目処はついた。そして、設立予定地も新潟交通が運営する万代シテイ第二駐車場ビルに絞り込まれた。当初は古町地区に設立する案も出たというが、齋藤氏はあえて、既存の映画街から遠い川を一本隔てた万代地区を選んだ。賃貸契約を結ぶに当たり、準備会から(有)新潟市民映画館という法人を立ち上げ、僅か10ヵ月足らずの昭和60年12月7日、“アラビアのロレンス”をこけら落としとして『シネ・ウインド』がオープンした。 |
当時は、地方都市に向けてミニシアター文化が広がりを見せていた頃。既に“名古屋シネマテーク”や“フォーラム山形”が活動を始めていた。だからと言って『シネ・ウインド』が、順風満帆の船出…というわけでは決して無かった。「今でこそ、この周辺はファッションビルとかあって人も多く訪れていますけど32年前は何も無かったですからね。齋藤は敢えて大変な未開の道を行くのが好きなのですよ(笑)。当時は、ちょうどレンタルビデオが出始めて、家で映画が見られるようになったから、映画館なんてもういらないんじゃない?って言われていた頃です」と、当時を知る月刊ウインドの制作長・市川明美さんは語る。「それに、まだ直営の映画館がたくさんありましたからね。その点、ウチは配給会社さんとの人脈も確立されていませんでしたから、齋藤が自ら東京に行って、配給会社に飛び込みで映画を借りられるところを探してルートを作ったのです」 駅前通りを港に向かって歩くこと10分ほど…バスターミナルの斜向いの駐車場ビル1階に『シネ・ウインド』がある。フィルムを模した鉄のオブジェは、映画館に見えない映画館を…というコンセプトを基にユニークな外観デザインが施されている(そのおかげで、気づかずに通り過ぎてしまう方も多いとか)。通りに面した壁面をガラス張りにして、入口には映画の看板やポスターを掲げる事はしない。壁面全面を本棚にして映画関連書籍がズラリと並ぶロビーは、さながら映画図書館のようで、この奥にホールがあるなんて、確かに思えない。これらの書籍は会員から持ち込まれたものが多く、中には映画好きだった故人のご家族が有効に使って欲しいから…と寄付してくれたものもあるそうだ。「こうした本棚の管理とかは、会員たちがやっているんですよ」と語ってくれたのは支配人の井上経久氏。そう、ここは会員組織で運営されており、会員になると運営に関わる権利を持つ事が出来るのだ。極端な話しだが説明してくれている井上氏も会費を払っている会員であり専従として支配人業務を行っているのだ。 |
現在、会員として登録しているのは約2000人。そのうちコアスタッフとして100名近くが運営に関わっているそうだ。月刊ウインドの編集から発送業務に至るまでの仕事も会員が行っている他、中には電話番やチラシの折込、お花の世話をするためだけに来てくれたり…と、無理の無い範囲で出来るだけの事をして、皆で映画館を支えているのである。更に上映作品の選定やイベントを絡めた特集上映会の企画など、面白そうであればどんどん採用してくれる。映画に限らず、落語会や演劇、音楽、アートなどアイデア次第では実現だって夢ではないのだ。「だからといって会員の皆さんが、映画好きの方ばかりという事でもなく、中にはあまり映画を観ない人もいらっしゃいますよ。こうした仲間で力を合わせる事が好きだったり…」実際、発起人である齋藤氏も映画館を立ち上げるくらいだから、突出した映画好きか?と思いきや「ウチの齋藤の場合は映画より、むしろ坂口安吾の方が好きだと思いますよ。安吾をやる!って新潟に帰って来て、映画館を作っちゃったからこそ、却って続いているのかも知れませんね」と市川さんは笑う。設立の呼びかけにも集まったのは、シネアストよりも色々な活動を多角的にされている方が多かった。「映画が好きな人たちにしてみたら、自分たちが観たい映画ならば、東京に行けてしまいますからね。それに、これに関わっちゃうと逆に自分が観たい映画を観る時間が無くなっちゃうでしょう?」 |
現在の客層は40代以上の女性が中心で、最近は“人生フルーツ”と“この世界の片隅に”が大ヒットした。「だからと言って、女性ウケする映画だけではなく、なるべく作品選びには様々な色をつけるよう意識しています」という井上氏は、幅広く会員の意見を取り入れるようにしている。「おかげで作品の幅は広がっていると思います。例えば、AVのバクシーシ山下監督をお招きしての特集は定番の企画ですし、ホラー映画好きが持ち込んだ企画も進行しているんですよ」こうしたトークイベントは、以前から行われており、それが縁で、長年のお付き合いをしている監督もたくさんいる。また、新潟で作られたドキュメンタリーの名作“阿賀に生きる”は、制作に齋藤氏が関わられており、節目ごとに特集上映と回顧展を開催している。「初めて観る若い人が、世代を越えて交流出来るのがイイですね」 設立から32年…多くの市民が、自分たちの映画館として『シネ・ウインド』を守り続けて来た。5年前にデジタル化の波が押し寄せた時も全国から募金に協力してくれたおかげでデジタル映写機と音響を導入した上に35ミリ映写機も残す事が出来た。「嬉しかったのは、以前新潟に住んでいた人たちも協力してくれた事です」毎年、ホテルで開催する周年祭のパーティーには、県外に出てしまった人たちも、この日だけは戻ってくる…なんて素晴らしいではないか。だからこそ、この街に住む子供たちが、いつかこの映画館を発見して欲しい…と井上氏は思いを述べる。「今の若者たちは、映画と距離が出来ているのが勿体ない。映画から想像する力や、お互いを認め合う力を養ってもらいたいです。それを映画館として何が出来るかを考えながら活動して行きたいですね」(取材:2017年11月) |
【座席】 94席 【音響】DS・DTS 【住所】新潟県新潟市中央区八千代2-1-1万代シテイ第2駐車場ビル1F 【電話】025-243-5530 本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street |