もう5月も半ばを過ぎたというのに、この日の北海道は小雪がちらつく程の寒波だった。札幌から快速を乗り継いで1時間足らず…苫小牧駅のホームからは、王子製紙工場の煙突からもくもくと白い水蒸気が湧き出るのが見える。ここ苫小牧市は、豊富な水と木材資源に恵まれたことから製紙工業の街として栄えてきた。高度経済成長期を境に人口は年々増え続け、現在は17万を超える道内4番目の規模を誇る工業都市だ。そんな街にミニシアター『シネマ・トーラス』が誕生したのは、今からちょうど20年前。当時はシネコンが日本に進出して間もない頃…「映画館を作るタイミング的にはイイ時期だった」と語ってくれたのは、代表の堀岡勇氏だ。


「もともと僕はここの人間じゃないんですよ」という堀岡氏は、十代の終わりから自分で撮った8ミリ映画をリュックに詰め込んで、片手に映写機を抱えながら、北海道を自主上映の旅をしていたという。地元茨城から北上を続け、函館を皮切りに小樽、旭川、富良野、深川、北見…と、その街の喫茶店に飛び込みで「今夜、8ミリ映画会をやりませんか?」と上映場所を自らの足で売り込んでいた。「それぞれの地域にコミュニティーがあって、そこに行けば何とかなるもので…それを目印に各地を回ったんです」北海道を転々とした堀岡氏は21歳の時に再び小樽に戻り、映画を撮りながら幻視舎というシネマテークを立ち上げて、ジャン・コクトーやカール・ドライヤーなどの前衛映画やアンダーグラウンド映画を上映していた。「初めて小樽の駅に降り立った時、すごく良い街だな…って思ったんです」とは言うものの当時の小樽は今のように観光地として整備されておらず、小樽運河も夏になると異臭さえ漂う街だった。それでも数多くの文豪や映像作家が愛した古き良き時代の面影が狭い路地裏の飲屋街に残っており、堀岡氏はそんな風景を見ながら「遠く離れた故郷の原風景と重なって安らぎを与えてくれた」と当時を振り返る。「小樽は雪が多くてね…アルバイトをしながら活動していたから、冬は仕事が無くなるんです。大変だったけど、ツケでお酒が飲める街だったし(笑)映画を撮る仲間も増えて、それはそれで楽しかったですよ」

そんな堀岡氏が8年間過ごした小樽を離れたのは、結婚して白老にある奥様の実家を継ぐ事になったから。場所は変わっても、仕事をしながら車で30分程の苫小牧で、上映活動を再開した。まずは、小さなライブハウスのような場所を借りて寺山修司監督の“田園に死す”を上映。「ここに知り合いも居なかったので、とりあえず苫小牧の人たちに受け入れられるのか様子を見たかったんです」ところが上映会には思っていたよりも多くの観客が来場して堀岡氏は手応えを感じたという。「この上映会は新聞でも取り上げられ、興味を持ってくれる仲間も出来ました。だったら、ここで続けてみようかな…と立ち上げたのが自主上映グループ『シネマ・トーラス』なんです」その後“灰とダイヤモンド”や“東京物語”といった昔の映画を上映すると更に多くの観客が詰めかけた。その翌年に映画館を借りて苫小牧映画祭を開催すると、映画館に入り切れない程の大盛況を見せた。


2回目の映画祭は1200人収容出来るホールに移し、札幌のテレビ局とタイアップして、おすぎや大林宣彦監督をゲストに迎える大規模なものとなった。映画祭成功のおかげで上映会を継続出来る軍資金も出来た。こうした成功の要因にあるのは、地方都市における上映作品の偏りが顕著だったという時代背景もあっただろう。「既存の映画館で上映されない作品を観たいという人がそれだけたくさんいたのでしょうね。それから映画祭以外にも月1回のペースで映画館を借りて、僕らが観て欲しいと思う作品を上映しました。そんな定期的な活動を積み重ねて、そういった作品に興味を持つ人たちを増やして来れたのだと思います」映画祭で得た収益を次の映画祭に活かす…こうした活動を繰り返す事で、堀岡氏は、映画館との付き合いや配給会社との関係といった映画館の仕組みを知る事が出来る恩恵を得た。「この時の経験のおかげで映画館をやっていくベースが出来たんですよね」

映画祭と自主上映会を続けて15年…どことなく慢性化を感じ始めていた堀岡氏は、何か新しいことをしたいと考えていた。そんな時、函館にミニシアター“シネマアイリス”がオープンするニュースを知り、ある決心をする。「正直、街の規模も変わらない函館でやれる事が、なんで苫小牧では出来ないんだ?って思ったんです」そう…常設映画館設立に向けて動き出したのだ。具体的に地方のミニシアターはどんな事をしているのか…早速、新潟と弘前の視察に向かった堀岡氏はある現実に直面した。「そもそも街の成り立ちが違い過ぎていたんです。街の文化は、長い年月をかけて住民が築き上げるもので、苫小牧は工業都市として急速に発展したものだから、残念ながら文化的な要素が揃っていないと感じさせられました」しかし、弘前にあったミニシアター“マリオン劇場”との出逢いが堀岡氏の背中を押す事になった。「そこは家族的な暖かみと地方ならではの見応えのあるラインナップで、こんな感じの映画館だったら苫小牧でも出きるんじゃないか?って思ったんです。実際に映画祭や自主上映で実績はあったわけだし、そういう映画館を住民は求めているじゃないか…ってね」


苫小牧に戻るとすぐに、映画館の開設準備に取りかかるが…肝心の資金はほぼゼロの状態。当時の仲間からも反対されてしまう。「自分の中で、もう諦め切れなくなって、そこで一旦、自主上映会は解散したんです」それから賛同してくれた数人のメンバーと共に、映画館設立に向けて活動を開始した。かなり早い段階で郵便局の跡地だった物件を見つけて契約も済ませた。「みんなに話していたのは、とにかく1年間は映画館設立に向けて頑張ろう!もしそこで資金繰りが出来なかったら諦めようという事でした。無理して3年とか4年とか頑張るのではなく、1年間で勝負がつかなかったら無しにする気構えでやっていたんです」ところが…資金集めをする上でこれが功を奏した。まだ改装もされていない状態の場所でパイプ椅子を並べて自主上映会を開催したのだ。その度に来場者に向けて、ここが映画館になる事をアピールして、チラシを配って出資金を募ったのだ。結果、そこで集まった金額が何と500万円以上!「お客さんからしたら、自分が映画を観たこの場所が映画館になる…って分かりやすいでしょう。それに、出資してくれた皆さんは映画祭とかに来てくれていた人たちが中心でした。だからこそ僕らの本気が伝わったのだと思います」こうして設立の見通しが立ち映写機も中古で購入。お金が無い分、郵便局で使っていたカウンターや椅子、テーブルも再利用して、館内の塗装など自分たちで出来ることは全てやった。そして遂に、1998年3月、“ブエノスアイレス”と“ウォレスとグルミット”をこけら落としで『シネマ・トーラス』はオープンした。


上映作品も単館系の作品だけに偏らず、“イングリッシュ・ペイシェント”や“海の上のピアニスト”などのメジャー作品も混在させて、幅広い層に対応した。その顕著な例が、こちらのヒット作のトップが最近まで“エクソシスト ディレクターズカット版”だった事。「ある程度入ると予想はしていましたけど、まさかここまでとは(笑)毎回、ほぼ満席状態で凄かったですよ」普段シネコンに行く人たちにも来てもらいたいから…と、作品を限定せずに柔軟性を持たせた成功例と言えるだろう。「札幌や新潟と違って苫小牧は都会ではないので、住んでいる人たちにとって敷居が高い映画館じゃ、ちょっと厳しいと思ったんです」向かいに生協(現在は無い)があり、住民たちの生活導線にあるこの場所を選んだ理由もそのひとつ。映画館に来る事は特別なものではなく日常生活の延長線上でありたい…それが『シネマ・トーラス』のコンセプトとなった。おかげで、街の中心部から離れているにも関わらず、現在も7〜8割の女性客がメインとなっている。

20人のボランティアに手伝ってもらい、受付から映写…設立当時から続けている出張上映まで、堀岡氏一人で対応。振り返れば20周年を迎えていた。現在は一日4作品上映しているが、出来れば3作品に絞って、その分じっくりと観てもらいたいという。「“人生フルーツ”みたいな口コミで広がってくれる作品が、本来ミニシアターの王道なわけじゃない?そういう作品を大事にしたい。SNSの評価だけで判断するのではなく、出来れば実際に自分の目で確かめてもらいたいです。せっかく良い作品なのに、それを観もしないで終わっちゃうなんて勿体ないでしょう」観てもらいたい映画のためなら、時には諦めかけていた作品が出来るようになった…と、配給会社から連絡があると、少々高くても収益は度外視してやっしまうこともしばしば。「僕は作品に関してこだわる必要は無いと思っているんです。苫小牧の映画ファンが好む作品を上映する映画館であればいいんです」と最後に述べてくれた言葉が印象に残った。(取材:2018年5月)


【座席】 40席 【音響】SR 

【住所】北海道苫小牧市本町2-1-11中央ボウル1F 【電話】0144-37-8182

  本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street