今年、創設百年を迎えた映画館がある。東京最大のターミナル駅として350万人以上が乗降する新宿駅東口にある『武蔵野館』だ。駅の地下からそのまま行ける武蔵野ビル3階にある3スクリーンを有するミニシアターは、新宿三丁目に「映画の殿堂」と謳われて、客席数600席、木造鉄筋三階建で、大正9年6月30日に創立した老舗映画館だ。当時は映画を観るといえば銀座・浅草が中心だった時代。一方で江戸時代から続く宿場町として栄え、まだ内藤新宿と呼ばれていた新宿三丁目界隈は、夕方になると人通りも少なくなる古びた商店街で、そんな街に映画館を建設する事に業界の人間は驚いたという。近代化が進む東京で開発に後れをとっていた新宿の発展のために映画館で人が呼べないか…商店街の店主が集まって映画館建設の計画は浮上したのである。 そこで街の有志たちが協議して映画館設立のためにお金を出し合って株式会社武蔵野館を設立。新宿の街を二分していた市電車庫の前にあった郵便局を買収して新規参入した『武蔵野館』であったが、役員として名を連ねるのは商店街の店主で興行に関しては全くの素人。映画関係者からは呆れられ、集客は見込めないであろうと大手の日本活動写真(後の日活)からは配給を受けられず、当時としては二番手と言われる国活が製作する邦画と大正活映が輸入する洋画をメインにプログラムされていた。しかし、翌年には国活からはフィルムの調達が困難となり早々に洋画専門館として再出発を余儀なくされた。 それから3年後、大きな転機が訪れる事となる大災害が発生した。大正12年に発生した関東大震災である。東京の街並は一変。古い江戸の街並を消し去った大震災によって人の流れや街の構造が下町から山の手に移ってしまったのだ。山手線の西ヘ延びる私鉄沿線には次々と住宅が建てられ、これら郊外電車が集中する新宿駅に多くの乗降客が利用するようになった。更に中心にデパートやビルが建てられ、変わる新宿を歌った流行歌まで登場して新宿は近代的な都市に生まれ変わったのである。そして『武蔵野館』では、その年を境に上映するどの映画にも連日満員記録が打ち立てられるようになり、名実共に一流館の仲間入りを果たした。 |
関東近郊から多くの観客が来場するようになった『武蔵野館』は、収容人数の拡大化を図り、昭和3年12月14日現在の場所に移転。鉄筋コンクリート三階建て1155席の場内に弁士の肉声が隅々まで行き渡るよう設計された円形型天井の大劇場としてオープンする。映画以外にもステージ・アトラクションの“ムサシノ・ヴォードビル”を上演するなど新しい試みを仕掛けていたが、翌年の昭和4年に常設の映画館としては初めてのトーキー作品を公開。しばらくはキワモノ扱いされていたトーキーだったが、昭和6年に公開された字幕スーパー付きの“モロッコ”が大ヒットすると時代はトーキー一色に塗り替えられ、遂には職を失う弁士や楽士らがストライキを起こす騒動にまで発展。太平洋戦争が始まると敵性映画としてアメリカやイギリスの映画は上映禁止となり、同盟国ナチスドイツのプロパガンダ映画や戦意高揚映画の上映を余儀なくされた暗黒の時代が続いた。 |
それまで二番館だった『武蔵野館』も大正13年には封切館に格上げされて、無声映画時代の弁士・徳川夢声も専属となった。また武蔵野管弦楽団と呼ばれたオーケストラが弁士の口上に心地よく伴奏し、休憩時間に流れる生演奏に観客は聴き入っていたという。更に人々を驚かせたのは入場時に無料で配布される20ページに及ぶ劇場オリジナルのプログラム「ムサシノ・ウィークリー」である。細かに解説や評論が掲載され、人々は未だ見ぬ世界をそこで知る事が出来たのだ。昭和2年から3年の頃には無声映画の名作が次々と封切られ大入袋が連日のように配られるなど、正に絶頂期を迎えており、昭和2年の映画年鑑では全国代表的映画常設館に名を連ねる程になった。その勢いは、やがて近隣にも昭和7年までの間に次々と映画館が設立されるという形で表れ、7館もの映画館と演劇場などが軒を連ね、新宿は一大興行街へと変貌を遂げていた。 |
東京大空襲で劇場内部を全焼したものの全壊を免れ、戦後は焦土と化した新宿の復興のシンボルとなった。そんな終戦後の混乱期に映画文化の発展と新宿の街を復興し、敗戦に打ち拉がれている人々に再び映画の灯によって夢を提供しようと『武蔵野館』の運営を受け継いだのが、戦後を代表する実業家のひとり河野義一氏であった。そして数多くのハリウッドの名作が堰を切ったように日本に輸入され、チャップリンの“黄金狂時代”や“カサブランカ”をまだ場内に椅子が無く天井に大きな穴が空いたままで公開。それでも多くの観客が訪れたという。客席にロマンスシートという同伴席を設けるなど『武蔵野館』は次々と新しいアイデアを導入し、昭和32年には“黒船”の撮影で来日したジョン・ウェインが舞台挨拶に訪れてピークを迎えた。その後、武蔵野映画劇場グループ(現在の武蔵野興業株式会社)は、20館以上の映画館を次々と設立して関東有数の興行会社へ成長した。 |
その年を境に映画人口は減少し続け、映画産業に斜陽化の波が押し寄せていた。既に大劇場の時代は過ぎ去り、国内の老舗大劇場は閉館を続けていた昭和41年、二代目『武蔵野館』は40年の歴史に幕を降ろし、昭和43年12月には地下3階・地上7階建の飲食店やアパレル店が入る複合施設「新宿武蔵野館ビル」を設立。7階には500席を有する新生『武蔵野館』が、旧作の“ベン・ハー”をこけら落しにオープンする。場内は、天井が高く大きなスクリーンが老舗の風格を感じさせる。シートにも最善の気配りが施され、リニューアルする際に、座席の感覚を足を伸ばして観られる程、ゆとりのあるスペースを確保したため女性のお客様には好評だった。ロビーを支える大理石の柱が格調高い重厚な作りになっており、ベージュの色調と明るめの照明が清潔なイメージを醸し出し、落ち着いた気持ちにさせてくれるのだ。しばらくは東宝のみゆき座チェーンとして新旧の話題作を提供し続けてきた『武蔵野館』だが、ミニシアターブームが到来した平成6年には、3階に3スクリーンを有する「シネマ・カリテ」をオープンした。 「シネマ・カリテ」時代は、ロビーの壁面を飾る大きなアリスの絵とシルクロード美術館が併設された映画館として話題を呼び、3つあるスクリーンの特性を活かして、2館をロードショウ館、1館をミニシアターとして、国籍・ジャンルを問わず各国の秀作を紹介したり、名画座としてハリウッド・クラシックスの上映を行うなど、当時はミニシアターのシネコンと呼ばれ話題となった。普段はショッピングや仕事帰りの女性客が大半を占めており、作品としても男性向けのアクション大作よりも女性向けのソフトな映画が多かった。また『武蔵野館』は東宝の“みゆき座”チェーン系列のロードショー作品をメインに、単館系作品にも力を入れており、中でもタリバン政権のアフガニスタンの実情を女性ジャーナリストの視点で描かれたイラン映画“カンダハール”には、大勢の女性客が詰めかけ連日満席となった。平成15年9月に7階の『武蔵野館』が閉館されると「シネマ・カリテ」は『武蔵野館』に館名が引き継がれ営業を開始する。(現在「シネマ・カリテ」は、新宿駅東口前にてミニシアター「シネマカリテ」として営業中) |
4年前には、約1年にも及ぶ大規模リニューアル工事を行なって生まれ変わった『武蔵野館』は、更にロビーの演出がパワーアップ。エレベーターを降りてチケット売り場からシックな雰囲気にイメージチェンジしたロビーに目をやると、奥には今や名物となった上映作品のイメージに合わせて中身を変えている大きな水槽が見える。中には映画の世界観に合わせた魚や爬虫類など滅多にお目に掛かれないようなが水棲生物が入っており、これを楽しみにしている常連も多い。ロビーの各所にはスタッフが手法を凝らした上映作品の衣裳や小道具展示しており、上映までの待ち時間は映画の世界にいるようだ。 以前は、女性を意識した映画館としてヨーロッパやアジアからの名作を送り続けていたが、近年はツウ好みのマニアックな作品が多く、男性のファンも多く来場されるようになった。今や『武蔵野館』と言えば、ごった煮感覚の作品選びが堪らない魅力であり、ホラーから社会派、子供向けのアニメまで上映する何でもありのミニシアターを目指しているという。10年前に比べて東京の映画館の構図は渋谷から再び新宿へと移り始めてきた。この小さいエリアに9館の映画館がひしめき合い、歓楽街の中では一番多くの映画をやっている地区となった。ここで生き残って行くために色々な趣向を凝らしてやっている『武蔵野館』。近年は、歩いて数分の場所にある「シネマカリテ」と交互にハシゴして、朝から晩まで行き当たりばったり気に入った映画をその場で決めて観賞するというツウなお客様が増えているそうだ。敢えて情報を入れずに感覚的に映画を観る…それがインターネットの無かった昔の映画の観方だった。そこから意外性な名作に出会ったりして、これも新しい映画の楽しみ方かも知れない。大正から昭和・平成そして令和へと、幾つもの激動の時代を乗り越え、我々に夢と希望を与え続けてくれた『武蔵野館』。百年を迎えた今、次に何を仕掛けてくれるだろうか。(取材:2019年6月) |