鳥取県には池が多い…と思ったのは着陸体勢に入った機内から見下ろした時だった。実際に空港の隣にある湖山池は日本最大の天然池だという。倉吉駅からJR山陰本線で隣の松崎駅を降りると駅の正面に大きな池が見える(やっぱり…)。この池は東郷池という周囲が12キロもある汽水湖(名前に池とあるが属性は湖に分類される)で、中心部の湖底から温泉が湧き出ているのが珍しい。そのため外気が下がると水面から薄らと湯気が立ち、池全体が幻想的な雰囲気に包まれるそうだ。駅周辺は東郷温泉という小さな温泉街で、対岸にはオバマ大統領が来日した際に有名になったはわい温泉がある。池周辺の町はあちこちから温泉が湧き出ており、池に面した公園や道路沿いの空き地からも湯煙が立ち上り、お湯が側溝に流れ込んでいるのには驚いた。予定よりも早く着いたので、まずは県道沿いにある観音様に手を合わせて駅周辺を少しブラブラ歩いてみた。古い商店が残る路地には町の空気に溶け込んでいる個性的なカフェや古本屋がある。近年、人口1万6千人ほどの小さな町に、多くの若者が都会では得られなかった価値観を求めて移住しているそうだ。

駅から池に沿って15分ほど歩くと、池を見下ろす高台に閉校した町立桜小学校がある。現在の小学校跡地は”さくら工芸品工房”として、町が管理運営している創作活動を行う工房やカフェが入る施設となっている。3階の工作室をリノベーションした映画館『jig theater(ジグシアター)』がオープンしたのは2021年7月15日。代表を務める柴田修兵氏も新たな移住者の一人だ。子供が産まれたのをきっかけに、長年暮らしてきた大阪を離れ、地方移住を考えていた柴田氏は、最終的に鳥取県の小さな町を選んだ。「この町でゲストハウスを運営している妻の友人を何度か訪れた時にイイ町だな…と思っていたのですが、その時にここで活動されている人たちとの出会いが大きかったです」と語る柴田氏。実は最初から映画館をやろうと考えていたわけではなかった。「具体的に何をするのかは曖昧で、オルタナティブスペースみたいな空間はどうかな?と思っていました」決め手となったのは、妻の三宅優子さんから「映画館なんていいんじゃない?」というひと言だった。映画館を作るのは難しいのではないか?と思っていたが、大阪のミニシアターで働いている友人に聞いてみると、予想していたほど莫大な予算を必要としないことが分かった。そこから映画館設立に向けて動き出す。



正面に日本海を臨み三方を山に囲まれ、東郷池が町のランドマークとして存在する湯梨浜町は、都会の喧騒から隔たれた箱庭のような町だ。だからと言って交通の便が悪いわけではなく、無人駅ながらもJR線の松崎駅が町なかにある。こうしたロケーションも柴田氏がここに映画館を作ろうと思った大きな要因のひとつだ。そして2005年に閉校した小学校の出会いによって映画館設立の計画は具体化する。その時点では引っ越したばかりの柴田氏は、すぐに映画館が出来るとは考えていなかったが、たまたま施設の1階に入っているカフェのオーナーさんから町の担当者を紹介してもらう。そこで、さっそく連絡してみると、タイミング良く間も無く空きが出ると教えてもらえたのだ。まずは施設の共有スペースでプレイベントとして、濱口竜介監督の”ハッピーアワー”(柴田氏は濱口監督が主催する”即興演技ワークショップ in Kobe”の参加が縁で本作に出演している)の上映会を2月に開催した。

エントランスは小学校時代の下駄箱が映画のチラシ入れに活用されていたり、連絡掲示板は上映作品の告知スペースとなっている。『jig theater(ジグシアター)』があるのは、正面にある階段を上った3階の元図工室と図工準備室だった場所。お昼になるとキンコンカンコ〜ンとチャイムが全館に流れて郷愁をそそる。なるほど上映スケジュールでお昼をまたがないのはこういう理由だったのか…と今さら気づく。図工準備室だったロビーには中央に大きなベンチソファーと両側には本棚がある。映画館だから映画の専門書が置いていると思いきや…アート系から文学や哲学などなど千差万別。中には”棍棒入門”など思わず手に取りたくなるタイトルが並ぶ。ぐるりと見渡すと、壁面や天井には知り合いのアーティストの作品を展示されているのだが、映画のポスターは見当たらず、敢えて言うなら映画館らしくない。これは前述にもあるように、映画館だけに特化するのではなくオルタナティブスペースとして色々な要素で使用していきたいから。受付を済ませて図工室だった場内に入る。座席はフラットな空間に木製のパレットを段々に組み合わせ、そこに素材の違う3種類のクッション材を重ねた背もたれのある簡易ソファを置いた。掛けている生成りの布が清潔感と温かさを演出する。機能美に溢れたシンプルな作りのソファはサイズと背もたれの高さもまちまちでその日の気分で選べるのが楽しい。このシートのデザインは、京都の建築家・奥泉理佐子さんによるものだ。「映画館の椅子はこう…という既成概念を取っ払って居心地がよくて観やすい座席にして欲しいとお願いしました」


柴田氏が映画館を作る時にイメージとした映画がある。それが、ビクトル・エリセ監督の”ミツバチのささやき”だった。村に移動映写の業者が”フランケンシュタイン”のフィルムをトラックに積んでやって来る。やがて村人たちは椅子を持って集まって来る。映画の原風景とも言えるこのシーンに柴田氏は「映画館はこういうのでイイんだ」と思ったという。「そもそも何が映画館を映画館たらしめるのか?」そこから導き出されたイメージが、木製のパレットを組んで、そこにクッション材を重ねてシーツを被せる…という構造が剥き出しになったソファだった。「都会ではインフラが全て整っていて、流通経路とか何も分からないまま受け入れている。僕が地方に移住したのは、自分がやった事を自分事として捉えられる暮らしをしたかったから。だからソファひとつ取っても仕組みがブラックボックス化しているより、構造がしっかり見える方がイイと思ったのです」

館名にある『jig(ジグ)』とは大工用語の「治具」という器具の総称である。職人が物を組み立てたり加工をする際に作業位置を指示する道具で、これがあれば職人さんはいちいち印(けがき)を記す必要が無く作業効率が上がる。しかし、こうした道具は完成した建築物には残らない…いわば作業を下支えする存在だ。「これは現代フランス哲学者・福尾匠さんのtwitterで知った言葉ですが、ジグという言葉が響きとしてもイメージとしても面白かった」そこで柴田氏は、映画館は観客が映画と出会うための「ジグ」のような存在であると思った。プロジェクターやスピーカーなどの装置は、映画が始まって場内が暗くなると観客には見えなくなり、観客の頭からは映画館という存在は消えて映画と一対一で向き合う。観客が観るのは映画であり映画館という空間に存在する様々なものは「ジグ」に過ぎない。それが『jig theater(ジグシアター)』という館名に込めた思いだ。


『jig theater(ジグシアター)』が提供する作品のコンセプトは「戸惑いの映画」だ。「戸惑い」という言葉の根底にあるのが、柴田氏が高校時代に深夜テレビで見た黒沢清監督のサイコスリラー”CURE”だった。「非常にショッキングな体験でした。静かに淡々と物語が進み恐ろしい事が次々と起こる…これは何なのだろうという気持ちがずっと残っていました。”CURE”は、それまで私が見知っていた映画の構造と全然違っていたんです」その映像体験を経て気付いたのが「好きとか嫌いという価値判断の前に、観終わって何を観ていたんだろう…という戸惑いがある映画の方が心に残っている」という事だった。今まで生きてきた日常が、ある映画を観た事で何か全然違ったものに見えて「戸惑い」を覚える。「その方が映画が持っている機能としてものすごく大きいのではないか…と思うんです」柴田氏はその「戸惑い」を感じてもらって、観客を立ち止まらせる映画を掛けていきたいと語る。こけら落としに選んだホン・サンス監督の”逃げた女”もやはり物語が進むにつれ「何が起きているのだろう」と思わせる構造の映画だった。主人公の女性が先輩や友人の元を訪れる。そこで交わされる普通の会話の中に時折顔を覗かせる不協和音に違和感を覚える。それが何が分からない…こうした自分が想定する範疇外の不協和音から覚える正体の分からない違和感が柴田氏の言われる「戸惑い」という事だろうか。


上映作品は月に1企画。作品も2〜3本程度に絞った適度な本数を基本としている。映画館を開けるのは土日を中心に月7日から10日のペースだが、それでも1企画に200人前後の来場者がいる。「町の人口規模からすると、都会のミニシアターみたいに毎日何本も上映するよりも上映本数を絞る事で、お客さんが迷う事が無くなると思うんです。皆さんの反応を見ると、このままのペースで良いかな…と思っています」ひとつの映画・ひとつのテーマにじっくり向き合うおかげで、映画を観る事が特別なイベントとして捉えられているのだ。「もし毎日たくさんの映画を上映するスタンスだったら、僕自身も作品について深く学ぶことが出来なかった」作品数が少ないから丁寧な宣伝も出来る。柴田氏は監督や作品について自分の言葉で伝えられるようにしている。こうした活動の成果が、最近ここに来る人たちにも変化として現れている。最初は物珍しさから来ていた人たちも今ではかなりのペースで来場されているのだ。

以前、上映している作品について興味のある人たちに集まってもらい、皆で自由に語り合う「アフターアワーズ」という場を設けていた。ところが回を重ねるうちに想定していない状況となり、「アフターアワーズ」は開催されなくなる。それは…普段の上映後に自然とお客様同士で映画について語り合うようになって、特別にそうした場を作る必要が無くなってしまったからだ。「時には、受付で2時間くらい平気で話したり、帰りに周辺のカフェでお客さん同士で語り合われたりしているんですよ」観客同士がひとつの映画を理解出来るまで突き詰める。映画館が出会いの場となり、その輪が映画館を中心に広がって「映画の熟成」があちこちで起こっているのだ。何でもSNSで完結してしまう時代に、映画について語り合う熱量を感じる事が出来る『jig theater(ジグシアター)』がある町がうらやましい。(取材:2023年11月)



【座席】 35席 【音響】5.1ch

【住所】鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎619 3階 【電話】問合せ・予約は公式サイトより

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