江戸時代から商人の町として栄え、戦後の問屋街から名古屋経済の中心地となった伏見は、オフィス街だけではなく、明治28年に創業した御園座≠笏術館・科学館などの施設がある文化的なエリアでもある。その御園座≠ノ隣接する古くから続く老舗が軒を連ねる御園通り商店街に平成17年12月17日に愛知県内をサービスエリアとしてテレビ放送やインターネット事業を展開するスターキャット株式会社によって3スクリーンのミニシアター『伏見ミリオン座』がオープンした。前身となる初代ミリオン座は昭和25年11月2日にヘラルドグループが運営する洋画ロードショー館でジョルスン物語≠こけら落としでオープン。以来、地域の特性に特化するように女性向けの名作・話題作を数多く送り続けて来た。しかし建物の老朽化に伴い、昭和58年9月2日をもって惜しまれつつ閉館した。それだけに昔から映画に慣れ親しんできた名古屋市民にとって、22年ぶりに「ミリオン座」の看板(トレードマークの王冠も引き継いでいる)が復活したのは感慨深いものがあったであろう。また旧ミリオン座で何度も上映されてきた人気の高かったローマの休日≠焜Iープニング作品として上映されている。そして、借地の期限が切れたのを機に平成31年4月19日に現在の長者町エリアで、スクリーン数を4スクリーンに増やし三代目『伏見ミリオン座』として再スタートを切った。 「映画館事業として基本的なスピリットは今までと変わっていません。皆さんに一回限りの映画体験を楽しんでもらいたい。皆さんが知らなかった良い作品に出会える場所となるのが私たちのコンセプトです」と語ってくれたのは支配人の稲垣明子さん。ミニシアターだからといって一部のコアなファンに向けられるような敷居の高い作品ではなく、ごく普通の映画も同じ目線で上映しているというスタンスだ。「だから分かりやすい話題作や社会性の高い問題作もセレクトします」そういった意味において稲垣さんは『伏見ミリオン座』を「映画好きが行く映画館」と思われないような作品選びを心掛けているという。「勿論、選定の際に重要視するのは作品のクオリティーの高さと面白さです。この監督や制作会社の作品は押さえたいという思いはありますが、ミニシアターだからこういう作品…というカテゴリにはこだわっていないんです。メジャーのような宣伝費が投下されていない作品がミニシアター系と呼ばれていますが、実はその国では1位のヒット作だったりする。私たちの目に触れないから知らないだけで、すごく単純で面白い作品もたくさん出て来ているんですよ」 |
お客様の層は旧館時代から年配の方がメインだが、オフィス街という立地から夕方を過ぎると仕事終わりに立ち寄られるスーツ姿のサラリーマンもチラホラ見られる。最近は独自の会員制度スターキャットシネクラブで、学生は入会金0円・いつでも1200円で観賞が可能なので少しずつ若者の姿も増えているという。「学生さんが会員証で土日に2〜3本ハシゴをされているのを見かけるようになりました。このサービスで若い方も映画にもっと興味を持ってくれれば…と思っています」現在の場所に移転して新しい施策を打ち出そうとしていた矢先、リニューアルして1年も経たないうちにコロナが慢延。1周年を迎えた時もコロナで休館中で大きく売り上げも落ちた。コロナが収束した現在もまだ完全に回復していない状態だという。多くの人が外に出られず家で過ごす事を余儀なくされて、特に若者の生活スタイルに大きな影響を及ぼした。「実はコロナ以降も若い人たちが、夜パワーを持て余しているというのを感じたんです。特にここが繁華街なので夜、歩いている若者の様子を見て一回くらいオールナイト上映をやってみたら面白いかも…と思ったのです」旧館時代に行なっていたオールナイト上映だが次第にお客様の数も減ってしまい、継続も難しいという判断から現在はレギュラー化が止まったままになっている。「もしかしたら月に一度くらいなら映画館で夜更かししてくれるのかな?と始めたんです」そこで昨年4月よりオールナイトを復活。夜11時から朝5時半まで(3本立・3000円)で開催したところ、回を重ねるうちにだんだんと来場者も増えてきた。上映作品の組み合わせは、まず、監督・俳優・テーマ・スタジオなどで特集を組まれ、特集名に合わせて作品をセレクトする手法を取られている。 |
デジタル化以降は作品の幅も本数も大幅に増えたのでお客様に忘れられない映画体験をしてもらうことを第一に企画を考えてきた。そのひとつが名作上映だ。「最近のブリジット・バルドー特集が良い例です。昔の映画をデジタルで再映するとオンタイムで観ていなかった若者が興味を持ってくれました。正に初めて観た映画は全部新作≠セったのです」ビジュアルをふんだんに使ったロビーのディスプレイからバルドーのファッションやメイクに興味を持つ若者たちが現れたのだ。「純粋に一番可愛いと思った作品を観る…そうやって選んだ映画って一生心に残ると思うのです」例え内容が理解出来なくても分かろうとする必要はないと稲垣さんは見解を述べる。「監督だって一回観ただけで分かるように作っていない。簡単に答えが出ないのも映画の面白さだと思います」そのためゲストを招いてトークイベントを開催することで、観客に作品の知識を深める手助けをしている。監督のティーチインや大学の先生に登壇していただき作品の背景を解説してもらう。チャイコフスキーの妻≠ナはロシア文化に造詣が深い亀山郁夫氏に舞台となった場所や時期についてご自身が体現されたロシアの空気感を交えて40分近くも話してもらい大盛況だった。「有識者の先生にお話をいただくことで作品の理解が深まると同時に、その映画を観たお客様の記憶により深く残ったと思うのです。そんなプラスアルファの機会を提供出来る映画館として続けていきたいです」更にもっと映画に踏み込んでもらうため『ミリオン1・3』には中継上映設備を完備。演劇やコンサートなどの映像配信イベントにも注力している。「映画館を使って皆で盛り上がるイベントをやって、スクリーンの醍醐味を感じてもらえるようなチャレンジをしています」 |
メジャーのような大々的に宣伝が行われていないミニシアターにとって重要なのは、映画好きスタッフの手によるディスプレイやポップなど地道な制作活動だ。壁面に貼っているスタッフ手作りのディスプレイは、告知や情報が充分行き届いていないハンデを補う役割を担っている。ちょうど取材に伺った時は、フランスの昆虫系ホラー映画スパイダー増殖≠ェ公開中で、フライヤーをカラーコピーして切り抜いた無数のクモを壁に貼るという高度な技に驚愕(しかもクモの足を立体的に浮かせるスタッフのセンス…ただ者ではない!)。こうした趣向を凝らしたディスプレイは観客が待ち時間にじっくり読み込めるので、時には予告編にはない効果を発揮することもある。だからこそお客様に立ち止まってもらうためには手を抜けないと稲垣さんは言う。「私たちの代わりに壁が接客してくれているのですから(笑)そこにこだわらないと面白くないじゃないですか。だからお客様はいつも熱心に読まれていますよ」この映画愛に満ちたディスプレイを見ながら稲垣さんに「これを作ったスタッフさんは愛すべき変態ですね」と最大の賛辞を込めて言うと、1階奥の男性トイレに案内してくれた。扉を開けた途端、スタッフさんの真価の極みはここにあった!と理解出来た。壁一面にびっしりとアーチストの切抜写真で埋め尽くされていたのだ(ここまでくれば正に芸術作品)。以前、俳優の片桐はいりさんもこのトイレに案内されて絶賛のお言葉を残されている。残念ながらここは男性トイレ…願わくば女性の皆さんにも見ていただける見学会を定期的に設けていただきたい。 |
コロナを挟んで社会は変わろうとしている。もっと便利になるなるために少しの不自由を通過する…今が正にその通過点に差し掛かっているのだ。映画館のデジタル化や自動化も同様だ。自動券売機を導入した際には今までやったことがない操作に怒り出すお年寄りもいたというが、スタッフは怒鳴れながらも親切丁寧に操作方法を説明されていた。当時はバックヤードで「どうやったら伝わるだろうか?」とスタッフ全員で作戦会議も繰り返し行われていた。ようやく最近は操作にも慣れてスムーズにチケットも購入出来るようになり以前のような混乱は少なくなった。今まで有人でチケットを販売していたスタッフが自動化のおかげでディスプレイ制作に時間を割り当てられるようになり、それを熱心に読み入るお客様に還元されるのだ。 エントランス横の駐車スペースに止まっているキッチンカーは『伏見ミリオン座の三ツ星キッチンカー★★★』という毎月色々なお店に場所貸しをしているもの。複数の店舗のキッチンカーが不定期に入替わり、テイクアウトでも『カフェミリオン』でも食べられる。「カフェを利用される方の多くは映画を観られる方ですが、オフィス街なので昼食後にコーヒーを飲んで職場に戻るという方もいらっしゃいますよ」と言われる通り平日はお年寄りに混じってスーツ姿の方も目立つ。コーヒーは有機栽培の豆にこだわっているのでファンも多い。他にも定番のメニュー以外で販売される上映作品のイメージに合わせたオリジナルメニューも人気だ。また最近は店内に新聞を置き始めたという。「コロナの時はどこも新聞を撤去していましたがお年寄りは新聞を読みながらコーヒーを飲む習慣が染み付いている方が多いので。小洒落たカフェというよりも純喫茶のイメージですね(笑)」ちなみに『カフェミリオン』にはDJブースも完備されており、1階のスペースを利用してライブやトークイベントなども開催されている。 |
「生活必需品のように映画が日常にあるようにしたい」それが稲垣さんの思いだ。昔は休みの日に出掛ける選択肢の上位に映画館があったが、現代は多種多様なライフスタイルによって上位にランクされるのは難しくなった。いやそれは映画だけに限らない。もしかすると今存在する娯楽と呼ばれるどれもが抜きん出て上位にランクされるのは無いのかも知れない。「でも皆さんはサブスクで映画を観ているのだから映画そのものは衰退はしていないと思うんです。ならば映画をテレビ画面ではなくスクリーンで観る体験をしてもらうキッカケを提供出来れば何かが変わると思うのです」作品に関しては好き嫌いがあるかも知れないが、設備を常に最高の状態で用意しておくことで、その映画を選んで訪れたお客様がリピーターとなるかも知れない。だから設備に関しては早い時期から4Kも対応を出来るようにしていた。「4Kが出だしの頃は作品自体が無かったので、設備投資したのに大丈夫なのかな?って思っていたのですが」という当初の不安に反して、旧作の4Kデジタルリマスター作品の上映が多くなって来た今では、県外から「地元では2Kしかやっていないから」とわざわざ来られる方も多い。それも映画館の選択肢となる基準なのだ。また音響に関しては『ミリオン1』では超重低音システムという最新の設備を導入しており、作品に合わせた質感と臨場感のある制作者の意図を忠実に再現した音響を生み出せる。「重低音上映会も開催しているのですが参加された皆さんは音に関して満足されており、映像についても音についてももっと発信していかなくては…と思っています」 そんな映画の面白さをもっと発信するために昨年2月より経営母体のスターキャットが新しい試みを開始した。「海外の映画祭に足を運んで映画を買い付けて配給事業を始めたのです」その映画がぼくの家族と祖国の戦争≠セった。敗戦の側に立ったドイツ人たちが占領していたデンマークに難民として逃れてくる。憎しみの中でドイツ人を人間として扱わない大多数の国民と人間としての尊厳を失いたくないという父の間で何が正しいのか?揺れ動く息子の視点で終戦後のヨーロッパを描いた正に今の世界が抱える問題を彷彿とさせる素晴らしい映画だった。「コロナになったからこそ今までやらなかった試みをやっています。もしコロナが無かったら何も変わらなかったかも知れませんね」と最後に述べてくれた言葉に改めて「当たり前と思っている日常」の大切さ…について考えさせられた。(取材:2024年11月) |