19世紀のイギリスで執筆活動をしていたトマス・ハーディが1891年に発表した小説「ダーバヴィル家のテス」を映画化した『テス』は、フランス映画であるが、イングランド南西部の田園地帯を舞台としている事から英語劇となっている。監督はロマン・ポランスキー。『水の中のナイフ』や『ローズマリーの赤ちゃん』など退廃的なムードが漂う作品が多かったポランスキーとしては珍しく抒情豊かな作品だ。テスを演じたのは、『アギーレ/神の怒り』の名優クラウス・キンスキーを父に持つドイツ人のナスターシャ・キンスキー。当時20歳の彼女は日本ではほぼ無名の新人。ポランスキーは、彼女のドイツ訛りを完全に無くし、更に舞台となるドーセット地方の方言を習得するため、4ヵ月かけて徹底的にトレーニングを行った。

ドーセットの小作農の娘テスは、奉公に出された血縁にあたる貴族ダーバヴィル家の息子アレックに無理やり関係を持たされ、子供を身ごもった事から一人屋敷を出て、村から村へと転々とする数奇な運命を辿る。テスの人生を狂わせたのは、元はダーバヴィル直系であると、村の牧師から聞かされた彼女の父が欲を出した事から始まる。浪費による借金苦から爵位を売った名家というのはヨーロッパにはたくさんいるらしく、劇中「偉大なる没落」と表現されていた。しかし、テスが奉公に行った家族もまた爵位を金で買っていた事が判明する。正当な血統を受け継ぐ家族が没落し、金で買った偽物の家族が財を成していたという不条理な現実がこの物語の根幹にある。

印象的なのは、実家に戻り農作業を手伝うテスが休憩中に乳飲み子に乳を与えるシーンだ。周りの小作人たちがその様子を見て、あの子は長く生きられないよ…と言う。19世紀のヨーロッパでは、貧困層の農村の娘が奉公先で妊娠して、僅かなお金で里に戻されるのが当たり前だった事が分かる。そんな周囲の目を気にせず、子供に乳を与えるテスの堂々とした姿に感動すら覚えた。こうした農村風景は全てポランスキー監督が1940年代に暮らしたユダヤ人地区の近くにあった農村で子供の頃に体験した作業で、『テス』の中で、それらを再現したかったという。

ポランスキーは、テスが生きた時代のイギリスにあった風景をルノワールの絵画のような自然が織りなす色彩と光で再現している。冒頭の白い衣装をまとった少女たちが春の夕暮れ刻に陽気な楽団の音楽に合わせて草原でダンスを楽しむ映像にまず心を奪われる。次第に夕陽のオレンジ色から深みを帯びたダークブルーへとグラデーションに変化していく空の美しさは鳥肌級だ。秋空の下で収穫したライ麦を束にするキラキラと黄金色に輝くシーンや灰色に甘く垂れ込めた曇った冬空の下で泥に塗れて収穫するカブ畑の絵画的な風景映像。こうした映像を生み出したのは、二人の撮影監督の力である。一人は、『オリエント急行殺人事件』や『キャバレー』で、ゴシック調の美しく深みのある映像を作り上げたジェフリー・アンスワースだ。ところが撮影の中盤に宿泊先の部屋で急逝。後任のギスラン・クロケは、それまで撮影したラッシュを全て見返して、撮影スタイルを把握して撮影に臨んだ。

ポランスキーは当時のイギリス農民の生活様式を忠実に再現するため、殆どをイギリスではもう見られなくなったフランスのノルマンディやブルターニュで撮影された。また季節感も表現する必要があったため、夏のシーンをノルマンディ、秋のシーンと村や町中はブルターニュなどフランス全土を移動している。ラストのストーンヘンジですら、パリの郊外にセットを建てて撮影したそうだ。当時のロケ地を赤丸で記した地図を大切にしているポランスキーの映像がブルーレイに残されている。

子供を病で死なせてしまったテスは、家を出て働く酪農場でエンジェルという青年と恋に落ちる。求婚するエンジェルに自分の過去を打ち明けられないまま月日が過ぎてゆくテスの心境。ある日、意を決したテスが自らの過去を綴った手紙をエンジェルの部屋にそっと差し込むシーンがある。翌朝、何事も無かったように接するエンジェルに安堵するテスだが、あろうことか手紙は部屋のカーペットの隙間に入って読まれていなかった…という事実に愕然とする。こうした運命の悪戯が繰り返され、映画の後半にテスがつぶやく「一度ひどい目に会えば後は慣れっこよ」というセリフに、胸が締め付けられる。再び放浪するテスが立ち寄った村の入口で石碑に祈りを捧げる映像が素晴らしい。通りがかりの老人が「ここで祈るな。呪いの地だ」と言う。クロス・イン・ハンドという土地で、かつて悪者を拷問にかけた場所だった。霧の中でひっそりと佇む村の風景が美しい。

困窮の中で家族のためにアレックの妻となったテスの前に一度は過去を許せなかったエンジェルが現れる。ここに理想だけに生きるエンジェルの大罪がある。テスは最初のつまづきとなったアレックを殺してエンジェルの元へと向かう。その瞬間からテスの放浪は逃亡へ変わる。逃亡の果てに辿り着くのが、異教徒の神殿と呼ばれるストーンヘンジだ。最後にテスは疲れて眠っているところを逮捕される。草原の向こうから太陽がゆっくり昇ってくる中、警官に連れられ朝靄の中に消えてゆくテス。その昇ってくる朝日は本物の太陽ではなく、ストーンヘンジの後ろに設置した投光機を少しずつ持ち上げていった人工の太陽だった。