川越の街に最盛期には7館あった映画館も、現在残るのは2館のみ。昭和30年代当時は娯楽と言えば映画と野球しかなかったため各映画会社系列館が全て揃って独自の番組でしのぎを削っていた。「元々お寺が集中しているこの街にはお祭りが一年を通して数多く行われていたため絶えず人が集まってくる場所でしたからマーケットとしては大きかったのです。それで映画館や芝居小屋が街の規模に比べて多かったわけです」と経営者の櫻井政幸氏は語る。かつては常設館以外にも仮説の小屋を建てて夜だけ映写技師が映写機を持ち込んで映画を掛ける劇場も存在していたという。 |
そんな中でもユニークなプログラムが名物となっていた『ホームラン劇場』には幅広い年齢層のファンが昼夜を問わず劇場に足を運んでいた。当初、2階席が畳となっていたため、2階の観客が立ち上がると映写機が影になって上映の妨げになる事がしばしば起こっていたという。そこで建物の天井を斜めに作り直した(上の写真)のだが、今度は屋根を斜めにしたため雨漏りが始まる等の難題が降り掛かり昭和63年に現在の建物にリニューアル。当時300席あった劇場を3館に分けて運営している。二本立興行は勿論、現在では実現不可能な組み合わせな封切り作品の三本、四本立興行を行い、地元の映画ファンは朝から晩まで映画館で過ごしていた事もざらだったという。特に土曜日に行われるオールナイト興行には多くのファンが詰めかけ川越の名物となっていた。「その当時はオールナイトを入れると一週間が8日あった計算になるんです」と当時を振り返る櫻井氏。 |
「終戦直後は場内で観客が撃ち合いのシーンで“健さん危ない!”とかかけ声を掛けたり、見せ場では拍手が起こったり…そんな熱気も昭和40年代になってから無くなってきたのですがオールナイトではこうした現象が続いていましたね」当時、東映がヤクザや任侠モノのプログラムピクチャーを毎週のように公開しており、硬派な男たちが暗い場内で熱くスクリーンを凝視していたのである。しかし、こうした熱気も藤純子の引退と共に終焉を迎える事となり時代の流れはアニメ映画へと移行してく事となる。かつては、オリジナルの特別鑑賞券も作っていた事も…「ウチはこういう事が好きだったんですよね(笑)。アニメやアイドル映画には前日からファンが徹夜で並ばれてお母さんが夜中に差し入れを持ってくる姿もよく見られましたよ」という言葉通り“さらば宇宙戦艦ヤマト”の公開記念フェスティバルにはモーニングショウであるにも関わらず多くの中高生たちが訪れた。こうした独自の番組編成の他にも櫻井氏は数々のイベントを仕掛けてきたアイデアマンである。川越で夏に開催される“提灯祭り”に合わせて東映大泉撮影所から“トラック野郎”で使用していた本物のトラックを借りて展示したり、写真右にあるような劇場前の絵看板を撮影所で飾ってあった実物を展示する等、映画の上映だけに留まらない催しを送り続けて来た。 川越を舞台とした松竹映画“鬼畜”で劇場の裏手にオープンセットを作り撮影されて以来、故野村芳太郎監督と親交を深め、監督自らの企画について意見を何度も求められて来た櫻井氏は、最後に次のように締めくくってくれた。「こうしたユニークな形で生き残って来た地方の映画館がどんどん閉館している…映画館を文化施設ではなく娯楽としか見ていない限り街に映画館が無くなるのは時間の問題ですよ。」(取材:2005年11月) |
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