江戸時代から漁港として栄えた宮城県石巻市。街の中心を流れる北上川河口近くの大きな中州に150年の歴史を持つ映画館『岡田劇場』があった。千葉源七によって前身である雑貨店が併設された寄席劇場“千葉座”として橋通り(西岸の仲町)に設立されたのは幕末の頃。当時の石巻は北上川が交通の拠点となっており、船着場の一番賑やかな河岸に建てられた劇場では、江戸歌舞伎の一座や落語家、講談師を次々と呼び、地域の人々にとって娯楽の中心となっていた。

その後、北上川の架橋に伴う道路建設のため劇場の撤去が求められ、明治15年に現在の中瀬に移築し、東西を内海橋で結ばれた川の中州に建つ芝居小屋として親しまれてきた。ところが明治19年、源七は橋の建設に当たった内海五郎兵衛に劇場を譲渡。内海は劇場を新設して館名を“内海座”に改名するも、その5年後の明治24年には、やはり橋の建設に従事した岡田組の代表である八城重兵衛の手に渡り館名も“岡田座”となる。この頃になると近隣にも劇場が建ち並び、大正3年には石巻初の活動写真専門館“東北館”が創業を始める。昭和8年、外観を東京の歌舞伎座を模して改築した“岡田座”は、場内も回り舞台を装備した本格的な芝居小屋として大変な賑わいを呈していたという。今日の『岡田劇場』の基盤を築き興業の神様と呼ばれていた先代の菅原一蔵氏は戦時中も六代目尾上菊五郎や澤村宗十郎といった一流の歌舞伎役者を呼んで一斉を風靡した。





当時の“岡田座”は入口に下足番がいて観客は靴を脱いで上がる仕組みになっており、料金の高い桟敷席には芸者の姿がよく見られたそうだ。しかし、戦火が激しくなってきた昭和20年には造船所に近い劇場が空襲の標的になりやすいという理由から強制撤去される。建物が壊される光景を一蔵氏は涙を流しながら見ていたとニ代目の宏氏は後日回想していた。しかし、一蔵氏は芝居小屋が無くなっても興業を続け、終戦直後には大相撲興業の勧進元を務めている。そして驚くことに昭和21年10月11日には劇場を早々に再建、これが現在の『岡田劇場』の建物となった。客席もイスではなく板の間に座布団で、以前のような二階建てには出来なかったものの、回り舞台を有した舞台にはこけら落としとして市川團十郎、河原崎権三郎など錚々たる役者を一堂に介した“東京大歌舞伎”が上演されている。

昭和24年12月、東横映画(東映の前身)の発足に合わせて場内を映画館に改装し、片岡千恵蔵主演の“獄門島”を初上映作品として映画館『岡田劇場』はスタートを切る。時代は正に日本映画全盛期の頃だ。漁港の街にある映画館には台風がくると避難のために入港する漁船員たちが訪れ、そのたびに『岡田劇場』はプログラムを変更して東映時代劇三本立や高倉健や藤純子の仁侠映画を再映だろうが取り寄せては上映していたという。勿論、劇場は嵐の時の船乗りだけに限らず連日盛況を見せており、超満員の場内は扉が閉まらないほどだった。当時は映画上映中でも木戸口で呼び出しを頼むと従業員が場内で観客の名前を呼んでいたというほのぼのとしたエピソードや、ある女性はお見合いで“湯の町悲歌(エレジー)”を観に来たところ断わるつもりが映画が終わる頃には好きになって結局は結婚したという想い出を語る。港町の河口に佇む映画館はこうした人々のささやかな幸せをずっと見守り続けてきたのだ。



昭和30年代に入ると東映と東宝作品を上映してきた『岡田劇場』も映画興行だけに止まらず芝居小屋としての役割を再び担う事となり、実演と呼ばれていた映画と組み合わせた歌謡ショーや宝塚を上演したり、ナイトショーでは成人映画とストリップを行い人気を博していた。しかし、昭和49年には『岡田劇場』の対岸にあった魚市場が移転、更に昭和51年には二百カイリ水域が宣言されると次第に石巻から漁船の数は減っていき劇場を訪れる船乗りたちの姿も見られなくなる。ちょうど近隣の劇場が次々と閉館していくのもこの頃からだ。映画の斜陽化が囁かれ始め、一時期は成人映画で持ち直すも一人も入場者が無いという日も出てくるほど。そんな厳しい状況でも人を喜ばせる事を常に考えていた宏氏は平成4年に“おろしあ国酔夢譚”の上映会を映画館の無い網地島の小学校で無料で行い200名を超える島民が映画を楽しんだ。その後、『岡田劇場』は三代目となる菅原聖氏に受け継がれ現在に至っている。

映画館の裏手にある自宅で生まれ育った聖氏は幼い頃から映画館の音の中で過ごし、遊び場所も芝居小屋当時の物置き部屋だったという。「子供の頃は映写室の小窓から観客の様子を見るのが好きで、“トラック野郎”では場内から笑いが絶えなかったので嬉しかったですよ」と当時を振り返る。高校生の時に「自分も父のように人を感動させたい」と劇場を継ごうと決めていた聖氏に対し、父・宏氏は「一見華やかに見える興行の世界も裏方仕事ばかりだから、継がなくても良いから自分の好きな事をやれ」と進言するも聖氏の決意は固く、平成11年『岡田劇場』は三代目・聖氏に引き継がれる事となった。勿論、この頃は既に劇場の運営はお世辞にも順調なものとは言い難かった。翌年には近隣に出来たシネコンによって客足はますます激減、石巻に残っていたライバル館“テアトル東宝”もこの年に閉館している。一時は閉館を考えるも『岡田劇場』を支援する市民が「がんばれ会」を立ち上げ、隔月で行われる上映会には300人近い観客が詰めかけ、場内はほぼ満席となる。会員限定の上映会では作品にちなんだ軽食が用意されたり、演劇、三味線などの実演や館内に昔のポスターを展示するなどファンが手作りで映画を楽しむ会を催ようしていた。また、聖氏がこだわり続けていたのが「石巻まで来られない映画を楽しみにしている子供たちのために…」と昭和50年代から始まった、毎週末に映画館の無い地域の公民館で行う巡回上映会だ。いつも巡回上映会を行うと子供たちが聖氏のところにやって来ては「おもせがったよ(面白かったよ)」とか「次いづ来んの?」という声を掛けてくれるそうだ。聖氏は仕事以上に「私たちがやらなければ子供たちは観たい映画を観れないのだ」という思いで続けていると語る。こうした地道な興行と歴史ある劇場を守り続けてきた事から石巻でロケ撮影が行われた“エクレール・お菓子放浪記”の舞台ともなった『岡田劇場』。奇しくも完成披露試写会の翌日…2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波によって150年も続いた劇場は思いもしなかった形で幕を閉じる事となる。


聖氏は津波で約1キロも流されながらも生き延びる事が出来たが、劇場は石積みの基礎だけを残して客席から映写機から全てが流されてしまった。ところが、津波で劇場が流されて1ヶ月も経たないうちに聖氏の姿は広島にあった。何と兼ねてより予定していた興行を仕切っていたのだ。更に、7月には劇場跡地で野外上映会を開催するなど意欲的に活動をされている事に驚かされる。劇場が無くても興行は出来る…それは終戦を目前に控えた昭和20年の夏、軍によって強制撤去を強いられ、芝居小屋が無くなっても大相撲興行の勧進元を務め続けた先代の精神をそのまま受け継いでいるようではないか?興行というのは映画館などの建物で行うものではないのだ…という事を今回の取材を終えて感じた。興行とは地元の人々に夢や希望、そして笑顔を与えようという精神なのだ。その思いがある限り建物は無くなってしまったが、近い将来『岡田劇場』はこの場所で復活を遂げるであろう。(2010年10月取材)

【座席】298席 【住所】宮城県石巻市中瀬3-2 ※2011年3月11日東日本大震災によって建物での営業は休館中です。

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