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当時、南の中心街・帯屋町の目抜き通りにはメジャー系の封切館が全てあった。そのため“愛宕劇場”のこけら落としはB級の西部劇“荒野の襲撃”とディーン・マーティンとジェリー・ルイスのコメディ“底抜け艦隊”の二本立でのスタートとなった。それでも土日は札止めになるほどチケット売り場には長い行列が出来たというのだから、当時の映画人気を窺い知ることが出来る。順調な滑り出しを見せた“愛宕劇場”をオープンしてすぐ、先代は“菜園場劇場”という映画館を設立した。「借金してまで建てたのに、そこの映画館は全然客が入らなくてね…だからすぐ閉めたんです。そこの土地を売った金でクーラーを買いましたよ。この辺の劇場でもクーラーを入れているところは無かったから、夏場になるとお客さんが涼を求めに来てくれて…まぁ良かったかな」と笑う水田氏が映画館の仕事を手伝うようになったのは、大学を卒業した22歳の頃。カーボンの時代から映写の仕事を任されて間もなく45年…現在もフィルム映写は必ず水田氏が行っている。 先代が病で倒れられてからも、帳場をお母様と妹さんが担当して家族全員で映画館の灯を守り続けて来た。元々は水田氏のお爺さまが大正時代に設立した安芸市にあったバルコニー席がある“太平館”という木造二階建ての芝居小屋が前身。映画と芝居を交互に行っていたが戦後は東宝・大映・日活の常設映画館となった。「僕は小学校6年まで安芸市にいました。当時は安芸市出身の川谷拓三さんが劇場のビラ貼りをしてお母さんが自転車番をしていたんですよ」“太平館”は20年前に閉館してしまったが、建物は当時のまま今も残っており、映写機は今でも現役で使えるというが、残念ながら、映画館を復活させる事は考えていないそうだ。 |
やがて映画人気に劇場の数が追いつかなくなると『高知あたご劇場』にも二番・三番館としてなら作品をボチボチと回してもらえるようになった。今でもヒット作として記録に残っているのは三番で上映した豊田四郎監督の“夫婦善哉”と成瀬巳喜男監督の“浮雲”という夢のような二本立興行だった。近所に“江ノ口劇場”という東映と松竹の二番館があったため、しばらくは東宝・日活・大映作品しか掛けられなかったが、東映の時代劇が下火になると“江ノ口劇場”が閉館。おかげで東映の二番の権利が回って来た。「その途端に任侠映画ブームですよ。そこでまた大勢のお客さんが詰めかけたんです」東映の任侠映画が一番、思い出に残っているという水田氏。「他にも勝新太郎の“兵隊やくざ”や“座頭市”といったシリーズものが入りましたね。このあたりから三本立て興行になって、平日は外回りの営業マンが朝10時頃に入って夕方4時くらいに出て会社に戻る…なんて姿がよく見られましたよ」 結果、最盛期に比べて映画館の数も少なくなった昭和40年代には東宝・東映・松竹・日活の三番、大映の二番館として、5社の作品を全て上映出来るようになった。あん時は贅沢やった…と当時を振り返る水田氏。任侠映画から実録路線になってブーム再燃の兆しも見えた。現在に至るまで、“仁義なき戦い”の全シリーズを今まで3回以上も上映している。「東映作品なら内容で選ばずに何でもやりましたよ」近所にあった東映の封切館“高知東映”の番線にコチラが組み込まれていたおかげで、三番館として借りる事が出来たのだ。やがて映画の斜陽化は進み、昭和47年には日活ロマンポルノの二番館となって経営を支えた時期もあった。 |
「ポルノ映画だから特にお客さんがドッと増えたという感じではなかった。大入りというよりもダラダラ来るという感じで、トータルしたら結構入っていたんだな…と。おかげで昔を知る人たちは未だにウチはヤクザ映画とポルノ映画…というイメージを持っていますよ。しばらくポルノ映画はやっていないのに、それを目当てに来る人もたまにいますね(笑)」ポルノ映画ブームも去ると再び一般映画も上映するようになる。その時のヒット作は、“アマデウス”と“もののけ姫”。やはり東宝の封切館“高知東宝”の番線に入っていたおかげで回って来た作品だ。アニメは金にならないと思われていた時代…今ではドル箱の“名探偵コナン”も封切りで上映した。「その時、入口から表通りまで長い列が出来たんですよ。アニメは入る…とそこで初めて実感しました。その後も“もののけ姫”は拡大で2館でやったんですけど、毎回立見で7月から10月頃までやっていたかな…“高知東宝”が打ち切ってからもやりよったからウチの興行収入の記録を塗り替えました」 やがて時代はシネコンからデジタルへ…常連のお客様も年輩の方が殆どとなってしまった。入替制でも座席指定でもないから映画の途中からでも自由に出入り出来るのが、シネコンに馴染めないお年寄りに喜ばれているようだ。逆に若い人が映画館で映画を観ない…という現状に水田氏は憤りを感じている。ミニシアター系の作品もやるようになってからも学生の姿は場内にチラホラ見かける程度だ。「自主映画を作っている学生のグループはいますけど、そういう人たちは一切、映画を観に来ない。昔の映画を観ないで、どうやって映画を学ぶんや」という言葉に大きく頷かざるを得ない。コチラの名物はフィルムしか残っていない名作上映。去年は“野火”の新作と旧作両方を上映した。フィルム映写機2台とデジタル映写機が設置されている映写室の床に目を落とすと、かつてここで看板絵を描いていた時代のペンキの跡が点々とついている。一般1000円、シニア・学生800円と、日本一安い映画館を自負するだけに、劇場で配布している番組表を次回持ってくれば更に割引になるのだから驚く。レトロな木製の扉を開けると、そこには小ぢんまりとしたロビー。受付でチケットを購入して上映まで喫煙所でちょっと一服…場内に入る前に売店でお菓子と飲み物(ビールとおつまみも用意されているのが嬉しい)を購入する。 |
売店には何故かインドネシアの商品も売られていたり、無造作に丸められたポスターやプレスシートの山を物色すると、思わぬお宝が見つかるかも。ただひとつ…初めての人に気をつけてもらいたいのは上映中のロビーでの会話だ。決して場内の扉が薄いわけではないのだが、左右にある階段を上がって2階席に行けばすぐに理解出来るはず。階段を上がった先には場内との仕切りが無く…そう、階段の先はいきなり場内という珍しい造りなのだ。つまり、ロビーでの会話は2階席に丸聞こえとなってしまうというわけ。今では珍しい2階席はスタジアム形式となっており、休日ともなると人気のある中央の席は常連客で早い者勝ちの争奪戦が展開される。 子供の頃から身近にあった映画館はねぐらのようなものだった…という水田氏が映画館を引き継いだのは、お父様が亡くなられた7年前。当時、常連だった円尾敏郎氏が音頭をとって、先代を忍んで行われた無料上映会には多くの劇場ファンが訪れた。円尾氏は今でも年末年始にファンサービスという形で劇場を借りて無料上映会を行っている。「常連さんの中には何をやっても来てくださる方がいますよ。ここでやる映画は観ないかんじゃいかって…」と、語ってくれた劇場スタッフの岩崎千尋氏も劇場に魅せられた常連客の一人。現在は“高知松竹”のスタッフだった西川泉氏の3人で劇場を切り盛りしている。「よく常連さんから、いつまでもこの劇場を続けて欲しい…という声をいただくのですが、僕は今まで通りやって行くだけ。まぁ、将来の展望といってもせいぜい考えられるのは2ヵ月先まで(笑)興行なんて元々堅実な職業じゃないんだから行き当たりばったりで良いんです」という水田氏の言葉が印象に残る。(2016年4月取材) |
【座席】 150席 【音響】SRD5.1 【住所】高知県高知市愛宕町1-1-22 【電話】088-823-8792 本ホームページに掲載されている写真・内容の無断転用はお断りいたします。(C)Minatomachi Cinema Street |