東京駅から北陸新幹線で2時間ほど…新潟県の上越妙高駅から妙高はねうまラインという二両編成のローカル線で2駅目の高田に降りる。夏も終わりに近づいた車窓から見える田園の稲穂も黄色く色づき始め、そんな景色を眺めながら改めて、ここは米どころなのだなぁと思う。豪雪地帯として知られる高田は江戸時代に松平忠輝が築いた高田城(現在の高田公園)の城下町として栄えた街だ。だからだろうか駅からメイン通りを東に歩くと歴史ある建造物を目にする。街を縦横無尽に走る矢代川から分岐する儀明川を渡ると、かつて中心部であった本町通りに突き当たる。その通りから少し奥に入ったところに街にただひとつの映画館『高田世界館』が昔と変わらぬ外観で佇んでいる。

前身は高田が市制を開始して間もない明治44年11月に芝居小屋として創業した『高田座』だ。野口孝博氏の設計によるモダンな建物は、当時「白亜の洋館現る」と評されたという。この本町通りには他にも野口氏が手掛けたモダンな建造物が建ち並び、また陸軍十三師団に誘致されていた事もあり、当時この界隈は大いに活況を呈していた。設立から間もない大正5年には観客定員数490名の常設映画館となり、館名も『世界館』と改称して日活映画を中心に上映。翌年には、近隣にあった芝居小屋“高盛館”も松竹キネマと帝国キネマ演芸の作品を上映する常設映画館“電気館”となり、このふたつの映画館は戦後までしのぎを削っていた。昭和15年頃に東宝の封切館となり『高田東宝映画劇場』と改名するも、昭和17年には太平洋戦争による戦時統制が敷かれ、全ての作品は社団法人映画配給社からの配給となった。

比較的戦災が少なかった高田は、戦後早くに復興を果たし、昭和22年にセントラル映画社が配給するアメリカ映画専門館として『高田セントラルシネマ』という館名で再スタートを切る。正に戦中アメリカ文化に触れることがなかった日本人の前に豊かな欧米文化がスクリーンに次々と映し出された時代だ。その後、昭和26年にセントラル映画社が解体されると、アメリカ映画と松竹の作品を上映する映画館となり『高田松竹館』を経て、昭和37年には『高田映画劇場』となる。高田市が直江津市と合併して上越市になった4年後の昭和50年…かつて隆盛を誇っていた日本映画も斜陽産業と呼ばれるようになり、日本映画の老舗であった日活もロマンポルノの製作に方針を転換した。年々動員数が激減していた『高田映画劇場』も時代の流れには逆らえず、定員数を100名減らした370名の成人映画館『高田日活』となる。一度は入場者数も戻り、立ち直りの光明が見えたものの、レンタルビデオの普及により、再び動員数は下降の一途を辿る。そんな時に平成19年に発生した新潟県中越沖地震が追い打ちをかけた。地震の影響は建物の構造に表れ、営業が困難になるほど雨漏りが激しくなった。経営者が廃業・取壊しを検討した頃、歴史ある映画館を何とか残そうとする人々が名乗りを上げた。


その中には音楽評論家でラジオDJのピーター・バラカン氏や落語家の笑福亭鶴瓶氏の名が連なっている。「鶴瓶さんが落語をされたり、バラカンさんは経営が傾き始めていた地震の2年前から毎年来ていただいて今年で9回目になるんですよ。色んな人たちが何とかココを残そうと、力添えをしてくれているんです」と語ってくれたのは、現在、支配人を務める上野迪音氏。それまでにも映画の自主上映会や様々なイベントを頻繁に行って来たが、平成21年3月31日に『高田日活』は閉館してしまう。ずっと支援していた岸田國昭氏を中心に結成された街なか映画館再生委員会が、この年の6月24日、特定非営利活動法人認定を受け、正式に劇場の経営を行うようになり、これを機に館名を現在の『高田世界館』とした。「古い建物を活かそうというのは、この街全体にも言えることで、歴史のある建物がたくさんあるのですが、こうしている間でも街の良い部分が無くなっているんですね。それに待ったをかける動きの中で出来た運動なんです」

平成21年に近代化産業遺産に認定、続く平成23年には国の登録有形文化財に登録され小さな街の映画館に注目が集まった。「街の人たちから寄付を募って、定期的に修繕工事を少しずつやったんです」観客席から始まり、屋根の瓦、正面の外壁、トイレ…と手を入れてきた。こうして体制も少しずつ整ってきたところで、街も『高田世界館』の歴史的価値を見直して、常設館へ向けて動き始めた。「そこで初めて職員を募集する事になって…大学時代に映画評論を勉強していた僕が運営を任される事になったのです」今では映画を楽しみするお客様が朝早くから友人同士連れ立って、スタッフが場内清掃中にも関わらず、まだ薄暗いロビーで待つほどになった。慌ててスタッフが出てくると、待ってましたとチケットを購入して場内に消えて行く。もう勝手知ったる常連さんにとって、こうした光景は日常茶飯事なのだ。


表通りから長い回廊を渡ったところにあるエントランス。木製の扉を開けてガラスで仕切られた当日券の窓口でチケットを購入する。ロビーの左右には二階席へと続く階段があり、芝居小屋だった頃の名残りで、二階席の左右は前方へ迫り出した桟敷席となっており、映写室は最後尾にある。現役で稼働している年代物のフィルム映写機は、今もカタカタカタとパワポレーターの音を響かせている。現役で営業している映画館としては日本最古級を誇り、谷口正晃監督はココを舞台にした“シグナル 月曜日のルカ”を作り上げた。

この街で生まれ育った上野氏はもう少し冷静な目で『高田世界館』を見ている。「僕が子供の頃には、この街に映画館は2館だけで、しかもココは成人映画館でしたから(笑)、正直言って映画館に対して思い入れは無かったんです」確かに映画館の歴史を語る上で、地方都市における映画館が映画という文化をどのように捉えて来たか…という点について見過ごしてはならない。「見学に来られた方から、この土地でずっと映画文化を守ってきたと称賛をいただきますが、必ずしもそうではないんです」と上野氏は続ける。昭和60年代早々には近隣にあった映画館が閉館する中で成人映画館として活路を見出したものの街の住民たちにとって映画は遠い存在になってしまったのも事実だ。「だから、ここを復活したのもゼロから始めたみたいなものでした。中には、街に映画館があった事すら知らない人もいましたから」


また上野氏は映画館だけではなく、若者を街に来させる事が重要だと続けた。「ただでさえ若者がどんどん都会に出て行って…残っている人たちも街に出ようとしない。状況は本当に良くないですよね。本来、街というのは共同意識として何か拠り所のような場所であるはずなのに、その街自体が弱って来ている。だから、新しい街の文化を作って行くんだ…というくらいの意識がないと、多分、映画館も復活出来ないと思うんです」造りが芝居小屋だったおかげでステージが広いという利点を活かしてライブや落語など映画以外のイベントを開催しているのもその一貫。以前行われた、渋さ知らズのライブに、普段は見かけない若者たちで超満員になった事が象徴的だった。「若い人たちに、こんなところに映画館があるとアピール出来たのが良かった。80年代のミニシアターブームでは、観客もちょっとオシャレしていたように、やっぱり映画が文化の最前線だったらすごく嬉しい。映画と現実が接点を持ちながら同時代的な関わり方をしていく…。ただ歴史ある映画館というだけで古い時代のノスタルジーで自己満足はしたくないですね」こうしたイベント開催時には電話で住所と名前を告げればチケットの取り置きをしてくれる。会員になる必要も無く、引き換えも当日清算でOK(しかも前売り料金)なのでご年輩や遠方から来る地域の人に喜ばれている。

上野氏は新たな観客を獲得するため試行錯誤を繰り返し、関連イベントの充実を計っている。例えば、先日上映した“風の波紋”というドキュメンタリー映画の中で、ご飯を食べるシーンが象徴的に使われていた事から、映画館でご飯食べるというイベントを開催して話題となった。「僕は映画が好きなので、映画で人を呼んだり、映画でしか出会えない事を体験してもらいたい」と語る。「映画館は、ただ椅子に座って観るだけの場所じゃなく、色々な関係性を持てる場所になればイイなと…。その上で、皆さんに映画ってイイもんだなと思ってもらえるようにしたいですね」最近になって上越市の動きにも変化が出てきた。市で開催するイベント時に、何か一緒にやりませんか?と声を掛けてくれたり、街の観光資源である歴史的建造物にも目を向け始めたという。「まずはこの街が良くならないと何も変わらない。地方には地方の動かし方があって、ウチが何か面白そうなイベントをやっているから市が目を向けてくれた…というのもあるんです。後は、これから街の人にどう受け入れられるか…ですね。まぁ、少しずつボチボチやっていきます(笑)」(2016年8月取材)


【座席】 200席 【音響】DS

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