明治30年1月下旬の雪降る夜…実業家・稲畑勝太郎によって、日本で初めてスクリーンに映画が映し出された。その場所は、森鴎外の小説で知られる京都・高瀬川沿いにあった京都電燈株式会社の中庭で、ここが日本映画発祥の地とされている。万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は、以前、染織先進国のフランスで染色技術を学ぶために留学していた時の級友だったリュミエール兄弟からシネマトグラフを購入し、映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国してから1年後の事だ。これは、明治維新以降、東京遷都による人口流出に歯止めを掛けられず衰退していた京都にとって、正に映画による文明開化が始まった記念すべき出来事となった。そこから京都における映画産業の発展は目覚ましく、明治34年には日本最古の映画会社のひとつである“横田兄弟商会(後の横田商会)”が設立され、日露戦争の記録映画を上映する芝居小屋には多くの観客が詰めかけた。更に二人の人物によって映画を単なる記録するものではなく、劇映画製作の時代へと移り変わっていく。この人物が日本映画の父と呼ばれる映画監督・マキノ省三と目玉の松ちゃんの愛称で大スターとなった尾上松之助である。多重露光や逆回しなど、フィルムの特性を熟知したトリック撮影を用いた忍術もので、人気は頂点に達し、大正末期から昭和にかけて市内には太秦を中心に7つの撮影所が次々と設立。毎週3〜4作品の映画が生産されるまでに成長した。戦後の黄金期には、大手の大映京都撮影所、松竹京都映画撮影所、東映京都撮影所で次々と時代劇の名作が生み出され、遂には海外の国際映画祭で賞を獲るまでになった。これが、京都が「日本のハリウッド」と呼ばれる所以である。

そんな隆盛を誇った日本映画も昭和30年代も半ばを過ぎると観客動員数に陰りが見え始め映画産業は斜陽の時代に突入する。台頭するテレビに対抗すべく、大手メジャーがピンク映画やエログロナンセンスのキワモノなどを製作して起死回生を図るが、そのどれもが瞑想状態の中で作られたものだから、結局、根本的な打開策には至らなかった。そんな中「俺たちはこんな映画に出るために映画界に入ったわけではない」と、石原裕次郎や三船敏郎、中村錦之助らが声を上げた。自分たちが作りたい映画を作る…と、独立プロを立ち上げたのだ。こうした動きの中で作られたのが、昭和43年に京都府政百年記念事業として製作された中村錦之助主演・伊藤大輔と山内鉄也の共同監督による“祇園祭”だった。この作品を京都府が資金援助をしたのをキッカケに京都府と映画界との関わりが強くなり、昭和46年に京都府はフィルムライブラリー事業を設立。昭和47年から行われた上映会“京都府保存映画観賞会”には15年間で6万5千人の観客を動員した。そして、昭和63年10月1日。地下鉄・烏丸御池駅の近くにある、江戸時代から呉服店や和装関係の卸問屋が集まる場所に、地上7階地下1階建ての京都の歴史と伝統文化を紹介する総合文化施設『京都文化博物館』本館が設立された。隣接する国の重要文化財に指定されている旧日本銀行京都支店(明治39年創業)は、古代学協会が運営していた『平安博物館』だったが、現在は別館として、1階のメインホールでは音楽会やセミナーなどのイベントが開催されている。そして本館3階には“京都府保存映画観賞会”から引き続いて京都府所蔵作品を上映する『フィルムシアター』が常設ホールとしてオープンした。京都で生まれた映画を中心としたフィルムや資料の(公開を前提とした)保存と収集…そして復元を行い、これらの資産を次の世代に遺す事が大きな役割だ。


平成12年には、フィルム専用低温収蔵庫が完成し、収蔵資料のデータベース化を開始した。フィルムも35mmと16mmだけではなく、9.5mmや8mmなどの小型映画も徹底した温度と湿度の下に、現在では劇映画が約680作品、記録映画が約120作品(この内、京都で製作された作品が45%を占める)を収蔵している。平成12年には約2年を費やして全収蔵フィルムの洗浄が完了。平成16年から収蔵された劣化フィルムの復元事業も始まり、既に9.5mmフィルムでしか存在しないサイレント作品等もデジタルで取り込み、ガタツキの修正や傷の補正を行ってきた。平成23年に行われた大規模リニューアルによって場内はスタジアム形式となり快適な観賞空間が実現。更には上映日数を増やしたり、夕方の開始時刻を仕事帰りの会社員のために引き下げる等の改善を行ったおかげで利用者も増えた。総合展示の入場料500円(大学生400円・高校生以下無料)という低料金で映画と常設の総合展示室が拝観できるのも魅力だ。

日常の生活圏内に撮影所が存在していた京都の人たち(とりわけ最盛期を知る60歳以上)にとって映画に対する思い入れは強い。ある人は近所の撮影所に働きに出ていたり、またある人はエキストラで出演したり…多分、他府県の人間よりも映画はより身近なものだったはずだ。そんな京都の映画ファンたちをも唸らせる『フィルムシアター』の特集上映はひと味変わっている。上映作品は京都で撮影された作品や京都を拠点として活動をされてきた映画人が手掛けた作品を中心に、時には日本の文化や風習をテーマとした作品を1ヵ月から長いものでは2ヵ月、時には一年がかりのシリーズで上映を続けている。こうした様々な切り口で、作品の選定と個性的な特集を企画立案しているのは映像・情報室長と主任学芸員を務める森脇清隆氏だ。「勿論、京都の映画が中心ですが、そればかりに偏らないようにしています。同じ時期に東京ではどんな映画が作られ、ヒットしていたのか?を知る事も大事なんです」



『京都文化博物館』は、優れた文化を育んできた千年の都・京都の博物館として「ほんまもん」を体感できる…をコンセプトに掲げている。「私たちの役目のひとつは収蔵している作品の価値を下げないことです。もし京都の時代劇が面白くないと言われるようになったら作品の価値が下がってしまう。つまり忘れられてしまう事になるのです」と語る森脇氏。そのためにも、素晴らしい映画を作り続けてきた先人たちの「ほんまもん」を伝えられる上映会やイベントが重要な役割を担っているのだ。若い学生も映画に魅力を感じてもらいたいと、ユニークな切り口の特集上映のラインナップは、毎回観客の好奇心を刺激してくれる。何と言っても“ぶんぱく青春映画祭 ヨリ道ノススメ”とか“映画に見る京女の系譜”といった型にはまらないタイトルの付け方は絶妙で興味を涌かずにはいられない。中でも“自由に映画を作りたい!京都のインディーズ興亡史”という特集では、京都で前衛映画の先駆者となった衣笠貞之助監督や独立プロを立ち上げた俳優たちの作品を取り上げており、日本映画が低迷している時期に、大手製作会社を離れ、自分たちの作りたい映画を追い求めた映画人たちの生き様を垣間見れる…ある意味、京都のアウトサイダー映画史と言える特集だった。また、溝口健二監督や加藤泰監督たちを陰で支えてきた裏方の職人たち…脚本家の依田義賢や、美術監督の井川徳道などの卓越した仕事ぶりを観ることが出来る特集も人気が高い。また、“映画に見るきもの文化”のような女優たちの着こなしを堪能出来る劇映画と滅多に観る機会がない伝統産業記録映画を組み合わせた特集も京都ならではだ。時には、4階で開催されている特別展と連動する事もあり、戦国時代を描いた特集上映の“戦国の夢追い人たち”と特別展の“戦国時代展”では、より深く時代背景を知る事が出来た。


こうした常設の特集上映以外にも外部の団体と協賛して、毎年開催されているふたつの映画祭が人気を博している。ひとつは今年で24回目を迎えた“京都国際子ども映画祭”。公募された子ども審査員が世界各国から集まった作品からグランプリを選出して、更に子どもたちがスタッフとして運営に参加するという運営形態をとっているユニークな映画祭だ。また別館ホールでは、映画製作の原理を子どもたちが楽しみながら学べる簡単なアニメーション作りなどのワークショップも開催している。そしてもうひとつ…毎年秋に開催されている“京都ヒストリカ国際映画祭”は、歴史をテーマとした世界で唯一の国際映画祭として海外からも注目を集めている。今年で10回目を迎えた映画祭が誕生したキッカケは、森脇氏が撮影所のスタッフとしていた何気ない会話からだった。「日本の時代劇と同じように、世界にだって西部劇やローマ史劇、中国の三国志といった歴史劇というジャンルがある。まだ日本で公開していない歴史映画を持ってきたら面白いのではないか?…というところから始まったんです」作品の選考は実際に京都で時代劇を作っているスタッフが行い、新作から旧作まで世界各国から選りすぐられた傑作が一週間の会期中に上映される。

映画祭の目的は世界の映画を観賞するだけではない。連携企画の人材育成プログラム“京都フィルムメーカーズラボ”では、世界中から集まった時代劇に魅力を感じる若者たちに東映京都撮影所と松竹撮影所のオープンセットで、実際に短編時代劇の製作を体験してもらう。「昔のハリウッドには海賊ものというジャンルがありましたが、それが現代では“パイレーツ・オブ・カリビアン”となって大ヒットしました。じゃあ時代劇はどうか?海賊ものが新しい形で生き返っているのですから、今までのように水戸黄門を作り続けるのも良いけど、そろそろ新しい時代劇を考えなくてはならない…というところからスタートしました」WEBで公募すると毎回アメリカやヨーロッパ、アジアだけではなく南米やアフリカから200人以上の応募があり、そこから審査を通過した約20名のクリエイターと日本の参加者が東映チームと松竹チームに分かれて合宿しながら時代劇作りに挑戦する。「大事なのは映画を作って終わるのではなく、その後に行われるセミナーなんです。海外の映画祭のディレクターや映画監督を講師に招いて世界の映画状況について話してもらう…そこで名刺交換したり色々なアドバイスをもらうのも自由。私たちはそうしたネットワークを作る機会を若いクリエーターたちにどんどん提供したいと思っています」

昭和46年から始まったノンフィルムと呼ばれる書籍やスチル写真、ポスター、プレスなどの映画関連資料の収蔵も現在30万点にものぼる。京都の撮影所で活動されてきた映画関係者や企業・協会から寄贈されたシナリオやデザイン画などの貴重な資料が管理されている。中でも伊藤大輔監督の直筆原稿や山中貞雄監督が戦場で綴った従軍記といった約1万7千点の所蔵映像資料は、平成15年に開館15周年記念として開催された自主企画展「KYOTO 映像フェスタ」で展示・公開されている。普段は通常公開されていない資料だが、然るべき申請をして受理されれば現物の閲覧も可能だ。その一方で、こんなケースあった。ある日、森脇氏に一本の電話が掛かってきた。その電話の主が言うには、自分のお婆さんが昔、女優をしていて、マキノなんちゃら…という映画会社の作品に出ていたと言い続けているというのだ。問い合わせは、そんな作品は本当にあったのでしょうか?…という孫からだった。早速、調べたところ確かにその映画は存在しており、その女優の名前もあった。所蔵映像資料の中にそのビデオがあったので、後日、その孫はお婆さんを伴って観に来られて、喜んで帰られたそうだ。学術研究の域を越えて個人の大切な思い出に寄り添う事も時には大切だと考えさせられる素敵なエピソードだ。


京都で初めて映画が上映されて既に120年が過ぎた。「戦前の京都は日本映画の半分以上を作っていて、数では東京を凌駕している時代もあったわけです。地方都市がどうして世界の映画ベスト100の上位に入る名作を幾つも作ってこれたのか?を突き詰めていくのが私たちの役目です」京都で映画産業が栄えたのは決して偶然ではなく、千年に亘ってモノを作り続けてきた土壌があるからで、それを探求する事で次の世代に活かせるヒントが見つかるのではないか…と森脇氏は言う。「清水焼も同じで、何に価値を付けるか…です。1億円の茶器も100均の茶器も機能は同じ。では、その金額の差は何か?技術は大事ですが、そこに感動が無ければ価値は付かない。作り手のセンスに技術が合わさって形になる…そこに感動が生まれるわけです。まずは師匠に弟子入りして、毎日、半人前と言われながらも、必死になって師匠に近づこうとする…それって映画の世界も同じなんです」

かつて、日活の野球部に誘われて入社した若者が、ただカメラが好きという理由で撮影部に配属された。若者は半人前と言われ、頭叩かれながら、師匠の技に近づこうと仕事を続けてきた。ある日フランス旅行でエールフランスのエコノミーを予約をすると、いつの間にかファーストクラスに変更されていた。若者は自分が気づかないうちに世界一の撮影監督になっていたのだ。それが日本を代表する宮川一夫だった。「そんなトップクラスの人が京都の撮影所にはたくさんいます。こうした感動を与える職人は、どんな京都の養分を吸ったらなれるのか?を私は知りたいと思います」最後に森脇氏が話してくれた宮川一夫との思い出が心に残る。「宮川さんは撮影の帰りに、ここでよく映画を観て行かれたんです。ある日、私がパソコンで画像の消し込みをしていたら、その様子を見ていた宮川さんが泣いているんです。びっくりしましてね…どうしたんですかと尋ねると、こんな便利なものが俺の時代にあったら本当に撮りたい画が撮れたのに…と悔しがっていたことを今でもよく覚えていますよ」(2018年8月取材)


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