セシル・B・デミルに見出され長きに亘りサイレント映画の女王として君臨したグロリア・スワンソンは1899年にシカゴで生まれた。20歳の時にパラマウント映画と契約を交わすと1934年の『空飛ぶ音楽』まで数多くの映画に出演してきた。身長155cmと小柄ながらも妖艶な表情と均整のとれたスタイリッシュなプロポーションで多くの人たちを虜にした。この時スワンソンは35歳。サイレントからトーキーへと映画界も変貌を遂げた時代で、彼女の出演作も徐々に少なくなっていた。その映画で脚本を手掛けていたのがビリー・ワイルダーだ。そこから26年後に自身が監督する『サンセット大通り』で忘れ去られたサイレント映画の大女優役にスワンソンを起用したのは単なる偶然ではあるまい。実生活でも落ち目となっていた彼女を同じような役柄で主役に据える…なんて、オファーしたワイルダー監督自身の非情もハリウッドに巣くむ魔物に取り憑かれているとしか思えない。

物語はある豪邸のプールに浮かぶ男の死体と、その死体の主である男が、何故自分が死に至ったのかを説明するモノローグから始まる。ここがワイルダー監督らしい洒落っ気の効いた遊びのギミックだ。男はウィリアム・ホールデン演じるジョーという売れない脚本家で、借金の取り立て屋に追いかけ回されているような人間だ。脚本家といっても昔の情熱はなく、誰かの脚本をパクって書き直しているような男である。ハリウッドを舞台にした映画だから、楽屋落ちのようなセリフが会話の中でポンポン飛び出してくるのが楽しい。自分の脚本をプロデューサーの秘書にケナされたジョーが「風と共に去りぬの脚本をボツにしたのは君か?」と嫌味を言うと「それは俺だ。南北戦争の映画なんか誰が観る」とプロデューサーが呟くシーンが面白い。

ある日、ジョーは、借金取りから追われて大きな屋敷に逃げ込む。そこは、かつてサイレント映画で名声を浴びた大女優ノーマ・デズモンドの住む屋敷だった。手入れを怠った庭と朽ちた感の屋敷の佇まいが怖い。最初は往年の大スターの屋敷と知り驚くが、若い演じる作家のジョーは、そこに敬意を払いもしない。興味深いのは、現実でもスワンソンは過去の人、一方ホールデンはスワンソンと入れ替わるようにトーキーから活躍(正にこの映画が製作された頃が油が乗っていた)している今の人というところ。こんな残酷な組み合わせを平気でやるワイルダーは映画に関しては平気でサドになる人だなぁ…と思う。彼女は今でも大スターであるという幻影の中に生きており、若き日に出演していたサイレント映画(実際に本人が出演していた映画で本当に美しい)を映写室で観ながらウットリとする表情は悲劇だ。サイレント映画の演技は声が出ない分、表情で大袈裟に見せなくてはならない。その癖が抜けないため歯を剥き出しに目を剥いてジョーに迫る老女優の表情は醜悪であり、それを堂々と演じるスワンソンに心底感動を覚える。映画評論家の双葉十三郎先生は、「この作品のおける彼女の成功をハリウッド映画史における画期的な事件」と称賛されているが、全くもって同感である。

屋敷にはもう一人、甲斐甲斐しく彼女の世話をするマックスという執筆がいる。演じるのはエリッヒ・フォン・シュトロハイム。『大いなる幻影』で主人公の捕虜と心を通わせるドイツ軍将校を演じたのが印象に残る名優だ。彼の存在がこの映画の怖さを更に引き立たせており、彼女が今でも多くのファンレターが届き、自分は人気者だと信じているのだが、そのファンレターは執事が書いていたという悲劇。何より衝撃的なのは、彼が彼女が全盛期時代の大監督であり、最初の夫であるという事実だ。

もうひとつ印象的なシーンがあった。私が『サンセット大通り』を観た時は、ちょうどチャップリンやロイドのサイレント時代の喜劇が復興上映が行われていたのだが、その中のひとつであるバスター・キートンの映画を観たばかりだったので、本人が自身の役で登場するシーンだ。キートンの他にもサイレント時代のスターだったアンナ・Q・ニルスン、H・B・ウォーナーが本人の役でトランプに興じるのである。若き脚本家はその光景を「蝋人形館」と称するが、正に過去の栄光の呪縛から逃れられられず時が止まったままのその部屋は「蝋人形館」だった。また、それを悲喜劇としてワンシーンに収めた見事な構図に、ワイルダーの才能に恐怖を覚えた。

こうして見ると、映画界において多くの映画人に影響を与えた大変革は、カラー化でもデジタル化でもテレビの台頭でもなく、サイレントからトーキー化であったと思う。声を出す事で悪声の女優が役を失うエピソードは数多く存在した。『雨に唄えば』もハッピーなミュージカルとして描かれていたが、角度を変えれば悲劇でもある。金田一耕助シリーズの『悪魔の手毬唄』でもトーキーのおかげで失業した弁士が犯罪を犯した末に殺害される物語だ。こうした映画人たちは、どんなにトーキーを憎んだ事だろうか。劇中、スワンソンはデミルが監督する撮影現場を訪れるシーンで、座った椅子の目の前にぶら下がるマイクを憎々しげに払いのける姿が印象的であった。それでもスタジオにいる照明係が彼女に気づいて照明を充てると他のスタッフたちが伝説の大女優が訪れていた事に感激して彼女を取り囲むシーンは、ワイルダーからの敬意の表れではないだろうか。

そして、自分からジョーの心が離れて行った事を知った彼女は銃で殺害して冒頭のシーンに戻るのだが、この映画で一番の見どころは、むしろここから。屋敷の中に入って来た警察と大勢の報道陣たちの群衆を映画の撮影と思い込んだ彼女は、サロメの演技をしながらゆっくりと階段を降りてくる。この悲劇の女優をワイルダーは少しの感傷も挟む事なく捉える。『失われた週末』の名カメラマンによるジョン・サイツがゆっくりと彼女を追うカメラも素晴らしい。スワンソンは本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得して、再びハリウッドで復活を果たしたのである。