私が高校生の時に初めて(ちゃんと)観たフランス映画が地元にあった小劇場でリバイバル上映された『天井桟敷の人々』だった。勿論、テレビの洋画劇場でフィルム・ノワールと呼ばれるアラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモンド主演の犯罪映画とかは観ていたのだが、映画館にフランス映画を観に行くには小中学生には敷居が高すぎた。ところがある日、予告編で流れた桟敷席からこぼれ落ちそうな程、身を乗り出した大勢の観客が映し出されたモノクロ映像に心を奪われてしまったのだ。36年前に製作された映画なのに、こんなにも力強く魅力溢れるカットは今まで観たことはなく、その時に観たお目当ての映画が何だったのか…全く覚えていない。こうした予期せぬ出会いがあるから映画館通いは止められない。
その予告編映像に使われていたシーンは、舞台となるパリの歓楽街「犯罪大通り(ヴールヴァール・デュ・タンブル大通りの俗称)」に実在していた芝居小屋「フュナンビュル座」の3階建て場内で格安で観劇できる3階桟敷席の様子だ。日本でも大きな劇場は格安の3階席があって、私が大学時代の4年間アルバイトしていた「東京宝塚劇場」も800円(1・2階席は2500〜7000円)で観劇出来たのだが傾斜が急勾配で、落ちやしないかといつもヒヤヒヤしながら「走らないで下さい」とお客さんを誘導していた。 冒頭、舞台の幕に見立てたオープニングタイトルが開けると、多くの人々がひしめき合う「犯罪大通り」の映像にまず驚かされる。まだ娯楽が芝居やレビュー、曲芸が主流だった時代の賑わいが表れている映像だ。ニースの撮影所に400メートルに及ぶオープンセットを建設して撮影が始まったのだか、言わずもがな、本作の撮影が開始された1943年のフランスは、ナチス・ドイツの占領下にあった時代。文学座の芥川比呂志氏は東宝東和の社史「東和の半世紀」の中で、製作者たちが戦争の中で一心に問いつめ、本作を具体化した事に対して「高次元の反戦映画」と述べていたが至極その通りと思う。 パンフレットによると、撮影場所の変更やドイツ軍による撮影ネガの検閲が行われており、その中で3時間を越える長尺の映画を作れたのだからフランス映画人たちの心意気に脱帽する。途中、連合軍のノルマンディ上陸(1944年6月)を挟んで2000人のエキストラを再び招集してクランクアップした本作が公開されたのは、パリが解放された1944年8月から7ヵ月後のドイツ降伏直前の1945年3月だった。実に製作期間に3年の歳月を費やした監督のマルセル・カルネが、戦時中に制約を受けていた全世界の演劇人たちへオマージュを捧げた渾身の逸品となった。 本作には1840年代に実在した三人の男たちが登場する。天才パントマイム役者として一世を風靡していたバチスト、シェークスピアを敬愛する「オセロ」俳優フレデリック、言葉をこよなく愛する詩人であり殺し屋として恐れられていたラスネールだ。そんな彼等と関わるのが、見せ物小屋で裸を売り物にする女性ガランスを中心に数奇な運命を辿る。「フュナンビュル座」で座長を務める父親から出来の悪い息子と蔑まれ、劇場の表でマネキンとして呼び込みの日々を過ごしていたバチストが、スリの疑いを掛けられたガランスをパントマイムによって救うシーンが素晴らしい。 双葉十三郎先生は「ぼくの採点表」の中で、本作について「たとえようもない豊かさがある」と述べられていたが正にその通りだと思う。夏祭りの時に広場に即席で建てられた掘建小屋で、裸を売り物にしたり、生きた蛇やら鶏やらを食べるゲテモノを見せ物にていた怪しい見せ物小屋に、インチキと分かりながらも胸ときめかせた頃が映画の中で描かれる。詩人のラスネールが手紙の代筆をした後に金粉や香水を振りかける所作や、街のあちこちに出没する古物屋ジェリコ(ピエール・ルノワールの小悪人的な怪演が見事!)が、いつも独特の口上と共に現れる狂言回し的な姿は実に雰囲気がある。 バチストを演じたジャン=ルイ・バローの見事なパントマイマーぶりに思わず大きなため息。冒頭間もない数分のバチストとガランスが出会うシーンに、本作の世界観がギュッと凝縮されていた。カルネ監督と脚本のジャック・プレヴェールの息の合った名コンビによる才能が溢れる。バローが白塗りの無言劇役者であるのに対して、黒塗りの悲劇役者を演じた饒舌なブラッスールの対象的な妙演技にただただ感服。そうした人間模様が緩急自在に入り乱れて展開される。自分の想いと裏腹に人生に翻弄されるガランスが、バチストの元からカーニバルの群衆に埋め尽くされた「犯罪大通り」に消えてゆく姿のラストは強く印象に残る。あっという間の3時間だ。 映画を観てすっかりパントマイムの素晴らしさに心を奪われた私は、帰ってから父にその想いを話すとロードショー公開時に父も観ていたという。西部劇や時代劇しか観ないと思っていた父と『天井桟敷の人々』は意外な接点だった。後日、札幌にパントマイマーのマルセル・マルソーが公演を行った際に二人で観に行ったのが懐かしい思い出である。そしてもうひとつ…忘れられないのが、大学時代の1984年に閉館した『有楽座』のラストショーとなった「さよならフェスティバル」で『有楽座』の大スクリーンで最後に観ることが出来た。ちょうどその頃は、同じ日比谷映画街にある「東京宝塚劇場」で4年間アルバイトをしていたおかげで『有楽座』の閉館から取り壊されるまでの最後の姿を身近で見送る事が出来たのが幸せだった。 |