1981年3月15日。ルネ・クレール監督が亡くなった。フランス映画を代表する巨匠でトーキー映画の先駆者でもある。日本で上映されていた『巴里の屋根の下』や『巴里祭』などトーキーの技術を最大限に引き出していた。映画サークルの自主上映会で高校生の頃に初めて観た時(多分16mmフィルム上映だったと思う)は、戦前の日本映画とは異なるダイナミックなカメラワークに驚いた記憶がある。特に『巴里の屋根の下』では冒頭でパリの下町を捉えたカメラがゆっくり近づいていくと遠くに聴こえていた街角のコーラスが段々と大きくなって来る。トーキー初期の映画にも関わらず、音楽を効果的に映像と同期させた技術とクレール監督の独創性に、思わず「凄い!」と唸ってしまった。この映画でシャンソンというジャンルを知り、帰りにレコード屋でフランス映画の主題歌を集めたコンピものサントラLPを1500円で購入したのを思い出す。

トーキーが発明されたのは1900年。当初は撮影と録音機器が別々だったので同期は難しかったがサウンドカメラの発明によって状況は刷新された。長編の商業映画として世に出たのは、1927年の『ジャズ・シンガー』から僅か3年後に製作された『巴里の屋根の下』はトーキーによる映画作りにさらなる進化を与えていた。この冒頭に登場するパリの下町は全てオープンセットで作られたものであり、まずは余計な騒音や雑音をセット撮影なよって完全に遮断したのだ。クレール監督という人は引き算の美学を持っている監督で、それまでのトーキー映画にあった雑音から何から音を全て入れるのではなく、必要な場面に必要な音のみ入れる手法を用いていたのだ。場面によっては音楽や歌だけを取り入れて役者の演技をサイレントで処理している。これによって全てのパートで、ちゃんと音が立っており、初期のトーキーにありがちだった聞き取りにくさは一掃されていた。

『リラの門』はクレール監督作品の中でも後期に製作された映画で最も好きな作品だ。舞台はパリ郊外の下町。タイトルにある「門」は、昔城壁に囲まれていたパリが、外部と連絡する幾つかの「門」のひとつ。つまり市街地からかなり外れた端に位置する場末の労働者街がリラだった。物語は『巴里の屋根の下』と同様に下町に暮らす貧しいながらも楽しく暮らす庶民が主人公となっている。トーキーという新しい技術を効果的に使いこなす研究家肌のクレールとしては本作はかなりオーソドックスだが、代表作としてあまり挙る事がないこの映画が一番好きだった。

ルネ・ファレの原作『巴里大循環鉄道』は下町にある場末の居酒屋に集まる住民たちのスラング(かなり泥臭い)や取り囲む街の猥雑さが描かれた風俗劇的な一面があったが、それをマイルドな人情劇へと脚色で大幅な変更を加えた。当初はカラーで製作することも考えていたというが、ユトリロやヴラマンク風の冷たい色を用いることで後景にある沢山のものを示すために白黒を採用したとパンフレットで紹介されている。結果としてこの判断は正しく、陰影のあるモノクロ画像が捉える夜の酒場通りが情緒的に描かれていた。芸術家を演じるジョルジュ・ブラッサンスが酒場でギターを奏でるシーンはモノクロ画像によって哀愁が漂っていた。ちなみに、二番館のパンフレットには劇中で歌っていた歌詞が掲載されていたのが珍しい。

主人公は人は良いが少々オツムが弱いジュジュと酒場でギターを奏でるのを生業とする芸術家と呼ばれる二人の男。酒が好きで失敗するジュジュは松竹映画に出てくる寅さんのようなキャラクターだ。演じるのは『天井桟敷の人々』で道化的な役回りの役者(すれ違う女性に、いま僕を見て笑った!とナンパする仕方が印象的だった)を演じたピエール・ブラッスウル。キリッとした目元が印象的な色男だっただけに、小太りで無精髭を生やした風貌ぶりに驚いたが、とぼけた風貌にますます円熟みを増して愛すべき駄目男を飄々と演じていた。

そんな二人の元に、警察に追われる殺人犯バルビエが逃げ込んで来る。どういう経緯で犯罪が行われたのかを酒場の店主が客に新聞を読み聞かせる。そのセリフを表で子供たちがバルビエごっこをしている様子に被せるクレール監督の茶目っ気に声を出して笑ってしまった。こうした事件を子供たちが遊びに取り入れていた時代があったのだ。何故かジュジュは犯人をかくまって逃走の手助けを買って出る。日頃から「何故俺は生きている?首を吊るためさ」などとことあるたびに言っており人生に失望している男にとってみれば、新聞を賑わせている犯罪者を救う事は日常を変える転機だったのだろう。酒場で働くウエイトレスが二人が家の地下室で何やら怪しい事をしていると疑い、とうとう二人の留守中、殺人犯に出くわす。何の変化もない日々に飽き飽きしていた彼女は、たちまち犯人に惹かれてしまうのは正に松竹調だ。おまけに密かに彼女を恋しているジュジュは彼女の想いを成就しようと手助けをするのが泣かせる。さしずめブラッスウルは、渥美清やハナ肇の役どころといったところだ。