『サイコ』を初めて観たのが中学生の頃で深夜のテレビ映画だった。誰もいない台所も廊下も電気が消された居間には僕一人だ。このシチュエーションも相俟って、ブラウン管に映し出されるモノクロの映像がものすごく怖かった。次に観たのが高校生だったと思うのだが、映画館でシネマラソンというオールナイト企画が行われ、そこでかなり使い回されたであろうフィルムで上映されたのだが、これもまた傷だらけの映像とオールナイトの映画館というシチュエーションとが相俟って怖さは倍増していた。つまり、キレイな状態のニュープリント『サイコ』は観たことがなく、恥ずかしながら今年発売された4Kで収録されたBlu-rayが初めてのキレイな『サイコ』だった。なるほど確かに、フィルムでは見えなかった暗いシーンの背景も鮮明に浮かび上がっていたのだが…あまりにクリア過ぎてオドロオドロしさが半減したのは否めない。

後年、神保町の古本屋で日比谷映画劇場の館名入りの初版パンフレットを購入した。B 5サイズの20ページもので当時としては、かなり豪華な仕様だったのだが、中を開いてみると映画の内容に関する情報が一切書かれていない。定番のあらすじどころか撮影ノート的な製作裏話が掲載されていないのである。その理由はパンフレットの1ページ目に紹介されていた。公開当時、ヒッチコックは『サイコ』のストーリーの発表を許していないため、時間がおこる場所と登場人物だけを記すに留まっているというわけだ。アメリカでは、映画館で販売されているパンフレットのような印刷物は存在しないため気にもされないだろうが、昭和30年代まで日本では無料で配布されていた映画の資料となるパンフレットに情報が一切記載されていなかったというのは珍事であった。

唯一、パンフレットに記載されている「12月11日、金曜日の午後2時43分」に、アリゾナ州フェニックスにあるスモールタウンで物語が始まる。ジャネット・リー演じる不動産会社の事務員が、顧客から預かった契約金4万ドルを持って車で逃げる30分ほどのシークエンスが映画の前半。途中、警官に尋問を受けたり、車を換えるために立ち寄った中古車店の店員から不審な目で見られたり…と、彼女の如何にも不自然な挙動に、観ているコチラもハラハラというより計画性の無さにイライラさせられる。こうした人物設定はヒッチコックらしさが全開。殆どがジャネットの表情の機微だけで勝負する前半のドラマ運びに、上手いなぁと感服させられる。ここまでは、ヒッチコックお得意の犯罪映画の展開であり、彼女がどこかのタイミングで別の犯罪に巻き込まれるパターンなのだろうと予想していたのだが、モーテルに立ち寄った後半から一転して予想もつかない方向へ物語は進展する。

パンフレットには作品の詳細について記載できない代わりに淀川長治先生のヒッチコックに関する寄稿が掲載されており、以前2度ほど会食した時のエピソードが紹介されているのだが、これが実に面白い。せっかく日本に来たのだから最高級の日本料理をご馳走しようと準備したのに、ヒッチコックが食べるのはステーキのみ。料亭に帝国ホテルからステーキを取り寄せたという話しから始まり、食事の席での会話はゾッとするようなゲテモノの話しをユーモアを交えて楽しそうに語っていたという。

『サイコ』は後世のスリラー映画に影響を与えている。ヒッチコックが原作を映画化しようと思った理由に挙げている殺人シーンで、それまで主人公と思っていたジャネット・リーが殺される意外性は『スクリーム』のオープニングで主役級のドリュー・バリモアが最初の犠牲者となる設定で活かされていた。息耐えたジャネット・リーの顔のアップが映し出されても「あれ?本当に殺されたの?ここで?」と暫くはこれもヒッチコックのギミックなのでは?と信じられなかった程だ。敢えて映画の3分の1でスターを殺してしまう事をについて、私の愛読書である「映画術ヒッチコック/トリュフォー」で述べられていたが、スターが死んでしまうというショックを与えるため、公開当時には上映が始まったら絶対に観客を入場させないように…と各映画館に条件をつけていたそうだ。それともうひとつ。マーチン・バルサム演じる探偵が殺されるシーンを俯瞰からワンショットで捉えるところである。部屋から突然ナイフをかざして出てくる殺人鬼が探偵を襲う直前にカメラを切り替える手法は『エクソシスト3』で、病室に入る看護師を背後から大きな刃物を持った殺人鬼がついて行くというシーンにも受け継がれている。