高校2年の春休みに背伸びして観た映画に、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』がある。以前アントニオーニの『情事』を観た時、さっぱり良さが分からなかったので、そのリベンジも兼ねてだった。1960年代初頭からイタリア映画界を席巻したネオレアリスモの代表格として名高いアントニオーニは、私の中ではフェリーニよりも敷居が高く、『情事』以来、しばらく観るのを避けていた。あと、当時の映画配給会社の日本語タイトルの付け方も悪い。原題の『BLOW UP』には「暴露」という意味があるにも関わらず、それにかすりもしないポルノグラフィティックなタイトルには違和感を感じていた。そしてもうひとつの意味…カメラマンをしていた叔父から、写真をネガから現像する際に引き伸ばす事と教えてもらい納得が出来た。

物語は、デビッド・ヘミングス演じる有名なファッションカメラマンが、ひと気の無い公園で男女の逢引きを撮影する。それに気づいた女性はフィルムを返してと詰め寄る。「僕はカメラマンで写真を撮るのが仕事だからそれは出来ない」と、現在ならば通らない理屈で彼は返却を断る。コンプライアンスなんて言葉が無力だった時代の話だ。観客は誰もが、逢引きしていた二人は人に知られてはならない不倫関係と思っていたのだが、執拗に写真の返却を求めるあたりから不穏なきな臭さを漂わせる。

初めてこの映画を観た時に、当時、公開したばかりのブライアン・デ・パルマ監督のサスペンス『ミッドナイト・クロス』を思い出した。僕が『ミッドナイト・クロス』と重ねたのは、不審に思ったカメラマンが遠景から撮影した写真を拡大(原題の裏の意味はここから来ている)して、壁に貼り合わせるシーンからだ。抱き合う二人が映る写真を右にパンすると木々の間から突き出た銃口。ここからアントニオーニ監督には珍しい超一級のサスペンスとして俄然面白くなってくる。

この映画で重要な鍵を握る謎の女を演じるヴァネッサ・レッドグレイヴは、僕にとって特別な女優だった。高校時代に通っていたベルリッツ英会話学校にイギリスから来ていた身長175cmある女の先生がいて、その人がレッドグレイヴに似ていた。綺麗なプリティッシュイングリッシュを話す女性で密かに憧れていたのだ。だから今でもレッドグレイヴの出ている映画を観ると、何となく胸が熱くなってしまう

1960年代に公開されたイギリス映画が立て続けに30年以上も経過した1990年代にリバイバル上映されて若者から再評価されていた。例えば、リチャード・レスターの『ナック』だったり、007のパロディ『カジノロワイヤル』だったり。アントニオーニ作品も本作以外に『砂丘』も再ブレイクしている。これらの映画に飛びついたのは、決して従来のシネフィルではなく、音楽や写真、ファッションやファニチャーなどサブカルチャーに興味を持つ層だった。その点においては主人公のカメラスタジオの造形や、そこにやって来るモデルの衣装など、現代のエッヂの効いた若者には60年代カルチャーが新鮮に感じたのだろう。リバイバル版のパンフレットに寄稿されているのは映画評論家ではなくフォトグラファーやミュージシャンばかり…という事からも配給会社がターゲットとしている方向性は明確だ。

結局は、殺人事件はどうなったのか?は解明されないまま映画は終わるのだが、冒頭と終焉部分に出てくる白塗りのメイクをした若者たち(パントマイマーみたいな)は、何を意味していたのかは分からず終いだった。ただ、こうした演出をカットインする手法は日本のサスペンス映画によくられた。例えば、鈴木清順や寺山修司、高林陽一のATG映画では王道の手法であった。アントニオーニが日本のアングラ演劇を見ていたのかどうかは不明であるが、こうした演出はある種の狂言回しとして実に興味深かった。そして、アントニオーニのアヴァンギャルドな世界観も90年代の若者にウケた要因なのだろうな…と思う