「映画館には、そこに訪れていた人たちの匂いがついていると思います。その匂いというのが、その人たちの想い出であったり夢であったり…映画館はただ映画を映すだけの建物ではなく、思いがいっぱい詰まっている空間なのです」と場内に今でも残る壊れた座席を見つめながら副館主の青山弘樹氏は語る。東映のヤクザ映画が全盛だった頃、映画に熱中したあまり荒々しい観客が前の座席を蹴飛ばしたため座席が傾いてしまったという。そんな時代の流れがストップしたかのような昔と変わらない映画館が名古屋市郊外の西尾市にある『西尾劇場』だ。昭和15年9月2日に岡崎市にあった龍城座を移築。関西歌舞伎の十三代目片岡仁左衛門の柿落としで芝居小屋としてスタートを切った。 「昔は、そんな映画と一体になるお客さんばかりでした。昔は商店街の中に映画館があって地域の人々が共有していた空間だったと思うのです」 |
街の主役が映画館であるべきと語る青山氏の言葉通り、ここ西尾市は大正14年から行われた都市開発計画においてイギリスの田園都市をモデルとして骨格を形成しており、正に『西尾劇場』を中心として駅前の盛り場が広がっている。戦時中は軍の規制が厳しく興行数は少なくなっていたが、戦後からはお芝居も復活し、さらに東海林太郎、エノケン、美空ひばり等が舞台を飾るようになった。本格的な映画興行を始めたのが終戦直後の昭和21年頃から。講和条約が結ばれるまで、劇場は勿論、配給会社に至るまでGHQの管制下に置かれておりコチラの劇場も進駐アメリカ軍の命令によって洋画専門(特にハリウッド映画)の上映を行っていたという。「当時は他の芝居小屋も半ば強制的にアメリカ映画を掛けさせられたようです。勿論、目的は映画によって資本主義の豊かな生活を見せる事によって戦意喪失を図るためだったのでしょうね」そういった時代がしばらく続き、昭和26年に講和条約が結ばれたのを境に、映画が自由解禁となり、東映が創業を開始したのをきっかけに日本映画を上映するようになった。 「昔は、テレビが無い時代でしたから大スターの美空ひばりが来た時なんかは、臨時列車が運行されまして2000人近い観客が押掛けたものです」と当時の盛況振りを振り返り語ってくれたのは、青山氏の母であり劇場の歴史を見守り続けてきた青山美代子さんである。「本来、芝居を行う劇場として設計されていましたから両側には桟敷席があって、昭和38年の改装までは場内に花道も残っていたんですよ。しばらくは映画とお芝居を両方行っていましたから、お芝居の時は従業員や裏方だけでも100人以上が働いていました」現在でもスクリーン前のステージには回り舞台が残っており、舞台下には使用されなくなった楽屋や、裏手には当時の大道具として背景のお城・田園風景等が残っているという。 |
今では少なくなった全国を巡業している旅回りの一座もよく公演を行っていたが、こうした興行も昭和43年で最後を迎える。「この辺りには文化会館みたいな公共施設が無かったため、何でもやっていましたね…舞台が広いですから、女子プロレス、キックボクシングといった格闘技系の興行から青年団などの集会…ストリップもやった事があるんですよ」と言われる通り地域の人々が多目的に利用出来る公民館としての役割をコチラは担っていた。その中でも娯楽の頂点であったのが映画であり全盛期においては人が入りきれない程の熱気を帯びていたという。「あれは、確か鶴田浩二の映画だったと思うのですが…通路にお客さんが新聞紙を敷いて観ていて、冬にも関わらず冷房かけても効かなかった程。2階席も立見のお客さんでギッシリ隙間も無い程でした。私はとにかく人が落ちませんように…ってヒヤヒヤしながら映画が早く終わってくれるように祈っていましたよ(笑)」と美代子さんは当時の混乱した様子を語ってくれた。前述の通り、日本映画を上映するようになった昭和26年以降から現在に至るまで基本的には東映の専門館(一時期は大映、日活の作品も掛けていた)として時代劇から任侠ものといった数多くのプログラムピクチャーを送り続けて来た。東映の黄金期に当たる片岡千恵蔵の時代劇や高倉健主演の任侠ものには毎回多くのファンが詰めかけ興奮のあまり椅子を蹴飛ばしては破壊してしまった程、場内は熱気に包まれていた。 |
「ただ…ヤクザ映画は地域性がハッキリ出ていましたね…」と美代子さんは語る。「例えば同じ健さんの映画でも“網走番外地”は入っても“唐獅子牡丹”は全く入らなかったり…役者さんでも都会的なイメージの方は入りませんでしたね。むしろ東京よりも関西でうけた作品が人気があったようでした」当時、まだ弘樹氏が小学生だった頃、美代子さんはオールナイト興行で最高の入場者記録を出した翌日にヘトヘトになりながら子供会の行事に引率した事を今でもハッキリと憶えていると言う。今では一般作から子供向けの映画まで幅広く上映しており毎年、特殊学級の子供たちを特別に招待して上映会を行ったり、年末には劇場前でもちつき大会を行うなど地域との密着を大事にしている。 入口からロビーに入ると8年程前から始めたという駄菓子の山で埋め尽くされた楽しい空間が目に飛び込んでくる。壁には鶴田浩二や藤純子、千葉真一といった往年の東映スターたちの広告ポスターが展示され、まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。入口の横には受付があり、その壁一面には、レア物のロビーカードが無造作に貼付けられている。実は、よく見ると商品を飾っている影にも昔のポスター(何とオリジナル版の“妖怪大戦争”のポスターも…)やスチール写真が何気なく置かれていたりと、ロビーを物色しているだけで一日はあっという間に過ぎてしまう。まさにロビーは“劇場の歴史”と“映画の歴史”の宝庫なのだ。 |
以前、西尾駅前には洋画専門館と大正時代から映画を掛けていた松竹・東宝専門館があったが、近隣にシネマコンプレックスが出来たおかげで次々と閉館してしまった。かつて高度経済成長期にはコチラの劇場を中心に飲食店やパチンコ店などの娯楽施設が軒を連ねていたという。「西尾市には大きな企業や工場を誘地しているわけではないので人口が増えたり、開発される事がないのです。だから昔の街並が残っているわけです」と言われる通り劇場周辺は昔ながらの飲み屋が今でも数多く残っている。外観は創業当時から殆ど変わっておらず、昔のままの姿を残している。昭和37年に大改装を行い、花道や桟敷席は姿を消してしまうが場内の柱や舞台は当時のまま…映写室には昔からずっと使い続けている真空管のアンプが今でも現役のまま設置されており、そこから流れる柔らかな音が実に心地よく耳に入ってくる。「5年程前、年輩の女性が劇場に入るなり泣いておられて…理由を訊ねたら、昔と変わらず映画館が残っていたのがうれしく感極まったらしいのです」今でも当時の事を思い出す度、頑張らなくてはと勇気づけられると青山氏は最後に語ってくれた。(取材:2005年12月) 【座席】 234席 【音響】 SR・DS 【住所】 愛知県西尾市花ノ木町4-15 |
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