松本市は長野県の中央部に位置して名山・穂高岳と槍ヶ岳を有し、国宝・松本城を中心として栄えた城下町である。市内の中心を流れる女鳥羽川沿いには昔ながらの長屋造りの飲食店が軒を連ね、大正ロマン漂う洋風建築が数多く点在している。かつては近隣の神社に詣でた参拝者が訪れる芝居小屋や遊技場がいくつも建ち並んでいたそうだ。そんな松本城のほど近くに、古くから興行を行っている老舗映画館『エンギザ』がある。 |
創業は、遡ること明治時代…元々は“演伎座”という名前の寄席や旅芸人が興行を行う芝居小屋から始まったとされている。「映画専門館となったのは、群馬県前橋市で映画館を経営していた私のひいお爺さんが大正6年頃に小屋を買い取り、映写機を持ち込んでからなのです」と語ってくれたのは、現在で四代目となる支配人の平形友宏氏。創業者のひいお爺様が他界されてからは、ひいお祖母様が戦前から戦後の日本映画が賑やかな時代、女手ひとつで切り盛りされていたという。日活専門としてスタートした設立当初は2階席が座敷の600人規模の大劇場だったが、戦後には隣の敷地に東宝専門館として『エンギザ2』を新設。更には上土という通りにも“松本電気館”(後に“松本東映〜上土シネマ”)という東映専門館を所有しており、まさに日本映画最盛期の一躍を担っていた。「小学生の頃はよく手伝いに来て、売店でお菓子を売っていました」と当時を振り返る平形氏。平成9年に現在のビルが建てられ、2スクリーンで再スタートを切り、平成14年に3スクリーンが加わり、現在に至っている。 |
大手町(旧緑町、上土町)は、江戸時代は松本城から近い場所のため武家屋敷が多い。芝居小屋や遊技場で賑わったのは明治以降で、こうした娯楽施設に伴って飲食の街が栄え、戦後も娯楽の中心地となっていた。平成以降は駅前を中心に若者文化が栄え、おかげでこの周辺は昔ながらの佇まいが殆ど手つかずのまま現存出来ているようだ。
記憶に新しいところでヒット作と言えば「やはり“もののけ姫”でしたね…あの当時はまだ昔の建物だったので次回の上映待ちの列が手前の広場を埋め尽くしましたからね」近隣のお店からもどうにかしてくれ…という苦情が出ていた程だったと平形氏は語る。「その時ですね、入替制という概念が発生したのは…」それまでは昔ながらの流し込みスタイルで行っていたが、皮肉にもシネコンが日本に上陸してきた時と同じくして『エンギザ』でも入替制を導入するようになった。ちなみに戦後における最大のヒット作は意外にも“あゝ野麦峠”だったという。岐阜から諏訪の製糸工場に働きに来ていた女の子を描いたご当地映画だったため、当時、女工さんだった大勢のお年寄りの方々が詰めかけて涙したという。「松本にも大きな製糸工場がいくつもあったからでしょうね。どこからこんなに大勢の人が来るのだろう…と驚いた事を覚えています。」土日は場内に人が溢れかえって大変だったらしいが、その代わり近隣のお店も恩恵を被ったらしく、映画を観終わったお客様が周辺の飲食店や洋品店に流れて、いつになく活気づいたという。「物の物流が均一化される前の話しですから…良いですよね。街に出て来ると買い物をしてお食事をして帰る…という時代の最後の大花火だったのかも知れません」と当時を振り返る。現在のお客様の層としては中高生が友人同士でワイワイと自転車で来場されたりとか、やはり駅から歩ける範囲に劇場が位置しているおかげで車を運転されないお年寄りの方がメインとなっている。「この辺りって一日中、デートで来ても充分楽しめるデートスポットなんですよね。 |
映画観てから買い物してお食事をして帰る…というコースが設定出来やすい場所だと思います」天気の良い日などは、少し早めにお出かけしてブラブラと川沿いを散策したり、歴史ある街並を楽しみながら映画を観る…なんていうのも映画を数倍楽しむコツなのではないだろうか。松本市は昔から続く映画館が多く残っている街として知られていたが、平成に入って徐々に閉館する劇場が続き、平成20年に“テアトル銀映”と“上土シネマ”が閉館。現在、市内に残る個人のロードショウ館は『エンギザ』だけになってしまった。
「ウチのような個人館はチェーン館とは違い、昔からこの地域の土壌で育った完全なオリジナルなものです。やはり、映画館は街あってのものだと思うので、いかに周辺のお店とかと盛り上げて行くか?というのが、これからのテーマだと思っています。無くしてしまったら元に戻す事は出来ませんからね」と最後に語ってくれた平形氏の言葉が印象的に残った。(2009年10月取材) |