北上川と中津川が合流し、いくつもの丘陵に囲まれる風光明媚な城下町・盛岡。今では日本国内でも少なくなった映画館通りが残る文化の街としてもよく知られている。平成23年3月11日金曜日14時46分、そんな情緒溢れる東北の街を未曾有の大災害が襲った。東北地方の太平洋沿岸部に大きな爪跡を残した東日本大震災である。比較的被害が軽微だった盛岡市内でも震度5強から6弱を記録し、数日間、街としての機能を奪われてしまった。地震発生から1週間、少しずつではあるが盛岡市内では震災以前の生活を取り戻し始めた。そして、3月19日から盛岡映画館通りにある全ての映画館が活動を再開したのだ。「幸いにも映写システムは無傷だったので皆で協議した結果、19日からオープンしようと決定したのです」と語ってくれたのは南部興行(株)が運営する映画館『盛岡ピカデリー』と『盛岡ルミエール』の支配人を務める中西栄三氏だ。「確かに、劇場の再開について時期尚早ではないか?という意見も出ましたが…」と中西氏は続ける。 |
「暗い話しばかりの中で、“映画館が開いた”というニュースは市民にとって安心材料になったと思うのです。だから、お客様が来なかったとしても映画館は開けようと。震災前は普通にやっていた場所が、ずっと閉めていると、いつまで経っても気持ちが切り替らない。だから、この決断は良かったと思います」ようやく交通が稼働し始め、映画の再開を待ちわびていた人々が、バスや電車を乗り継いで映画館に訪れる光景を見ると、やはり盛岡は映画の街なのだ…と思う。江戸時代から大衆芸能が盛んだったこの場所に初めて活動写真が上映されたのは明治初期の事。大正4年に現在の南大通りに活動写真専門の“記念館”が誕生し、その他の芝居小屋も活動写真専門館に改装。その後、明治24年に開業した盛岡駅と市の中心部を流れる北上川に開運橋が架けられたのを契機に新しい街づくりが行われる。盛岡城の西側一帯にあった南部家所有の御菜園を大正15年に2万坪を超える水田を払い下げ昭和2年より大規模な開発が行われた。これによって、幹線道路が昭和10年に完成し、これが現在の映画館通りの幕開けとなる。 終戦間もない昭和21年、日本映画が庶民にとって娯楽の中心であった頃、映画雑誌“映画”が創刊された。編集長を務めていた故・小暮重信氏は昭和30年、盛岡市内に日活の直営館である“盛岡日活映画劇場”の建設に参画。映画雑誌の編集長で培った数多くの映画人や俳優たちの人脈を活かし、こけら落としには、日活の大スター小林旭や浅丘ルリ子等を呼び、華々しくオープニングを飾った。それが『盛岡ピカデリー』そして『盛岡ルミエール』の最初の一歩であった事は間違いない。昭和37年には南部興行(株)を設立、その2年後の昭和39年に丸の内ピカデリー系列の『盛岡ピカデリー』を立ち上げ、盛岡初のミニシアターとして、数々の名作を提供し続けてきた。昭和54年には“盛岡日活劇場”のあった場所(現在の日活ビル)に“盛岡名劇1”(平成2年に“盛岡名劇2”)をオープン。そして昭和62年に『盛岡ルミエール1・2』を立ち上げる。ちなみに『盛岡ルミエール』の館名は映画産業の祖と呼ばれるルミエール兄弟から取ったものだが、名付け親は重信氏と親交の厚かった映画評論家の故・淀川長治氏である事は有名な話し。その後、重信氏が逝去された平成6年に、現在代表を務める小暮信人氏が25年間勤務してきた松竹を退社して劇場経営を引き継ぐこととなる。
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信人氏は盛岡と秋田を合わせて7館の劇場運営の他に“みちのく国際ミステリー映画祭”の実行委員長を受け持つなど映画の街盛岡を牽引してきた立役者である。しかし、施設の老朽化と近隣に出来たシネコンの影響による客足の減少から、平成21年1月31日に映画館通りのシンボル的存在であった『盛岡ピカデリー』と“盛岡名劇1・2”の3館を閉館する…といった決断を下す。盛岡市は中心市街地活性化の一環として映画館の保護策を取って、シネコンの郊外出店を抑制したり、映画館と市民が協力して映画祭をバックアップするなど映画文化の保護と育成に力を注いできたが、レジャーの多様化や郊外化による観客の流出を食い止める事が出来なかった。『盛岡ピカデリー』の名物として市民に愛され続けてきた手描きの絵看板との別れを惜しむ映画ファンが営業最終週の感謝特別上映会に、平日の夜にも関わらず100人以上詰め掛けた。ちなみにラストショーは、特別価格500円で盛岡でロケを行った“男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎”と“サウンド・オブ・ミュージック”だった。最盛期には16館もの劇場が軒を連ねていた映画館通りで、年間5万人もの入場者数を誇った『盛岡ピカデリー』の閉館は、東北の興行界においてはひとつの時代の終焉と言えるべき大事であった。 |
映画館通りの入口に名物の絵看板を掲げたビルの地下に以前と変わらない出で立ちのロードショウ館『盛岡ピカデリー』はある。ワンスロープ式の場内に列の最後尾から入場すると地下とは思えない程ゆったりとした空間が広がっている。通常のスロープよりも高低差が確保されているため比較的どの場所からも観やすく、前列の頭で遮られる事がない。『盛岡ピカデリー』から歩いて5分程の距離に2スクリーンを有する『盛岡ルミエール1・2』がある。設立当初からミニシアター向きの名作が上映され、時には名作の三本立て興行を行った事もあるが、最近は単館系だけはなく丸の内ピカデリー2・3系列の作品をメインに上映、子供からお年寄りまで幅広い年齢層に支持されている。3階の『ルミエール1』、5階の『ルミエール2』と、両スクリーン合わせても200席に満たない小じんまりとした場内はまるでプライベートシアターのように落ち着く。席に座って後ろを見ると映写の窓はあるものの、映写室らしきスペースが無いことに気づく。コチラの映写室は4階にあり、映写機の映像を2枚の鏡に反射させてスクリーンに投影するという手法を採用しているのだ。限られた空間を有効に使うために編み出されたユニークな上映システムのおかげで快適な広さの場内が実現している。
「ちょうど、震災が起こった翌日からは、子供向けの春休み映画が始まろうとしていた時期なんですよ。この日のために子供たちは前売り券を買って楽しみにしていたわけですから、仮に採算が取れないとしても映画館を開こうと思っていました」その時、中西氏は子供たちがお金を握りしめて劇場の窓口に前売り券を買いに来ていた光景を思い出していたそうだ。「もしかすると不謹慎と、クレームが入るかも知れないけれど、この大変な時期だからこそ大切にしてあげたかったのです」春休みになったら“ワンピース”や“ブリキュア”を観に行こうと友だちと計画立てていた子供たちの夢を奪いたくなかったという中西氏。きっと震災の記憶と共に、映画館で観た映画を子供たちは忘れないだろう…そして街は、今も着実に街は以前の姿を取り戻そうと歩み続けている。(2010年10月・2011年3月取材) |