日本映画が隆盛を極めた昭和30年代、茨城県南部に位置する人口13万人ほどの街・土浦が"映画の街"と呼ばれていたのをご存知だろうか?関東最大の面積を誇る湖・霞ヶ浦を有し、大正時代に開通した筑波鉄道の利便性に伴って、戦時中、霞ヶ浦海軍航空隊があった事から商業都市の中核を担っていた戦後の土浦市内には映画館が12スクリーンあった。「業界では戦後の七不思議と言われているんですよ」と語るのは(有)T.R.Eが運営する市内に唯一残る個人館『土浦セントラルシネマズ』の代表である寺内龍地氏だ。(ちなみにギタリストの寺内タケシ氏は実兄)「業界では人口3万人に1スクリーンと言われてますから、土浦市は人口に対して映画館が多過ぎる。それでも経営が成り立っていたのは、当時、郡部だった筑波など周辺の地域に住んでいた50万人の人々が、休日は土浦に集まって来たからなのです」 |
ヘラルド映画は“小さな恋のメロディ”が大ヒット。さらに社会現象となった“エマニエル夫人”や“コンボイ”など手堅く数字を伸ばしていた。ところが、今でこそ映画界のリーダー的存在の東宝がヒット作の決め手に欠けていたこの頃、次第に映画館の経営を圧迫し始めた。「昭和40年代後半は、どんどん観客が減って来て、遂に親父が“こんな儲からないなら映画館を閉めて駐車場にしてしまえ!”って叔父に怒ったんですよ。それで最後のつもりでやった“日本沈没”が大ヒットしたんです」そこから、東宝の快進撃が始まった。 「翌年の“伊豆の踊子”で山口百恵と三浦友和のモモトモシリーズで火がついた。それでアイドル路線に乗ったワケです」寺内氏が今でも忘れられないのは、1980年代に絶大な人気を誇っていた、たのきんトリオの主演作“青春グラフィティ スニーカーぶるーす”を公開した時の出来事だ。「200席しかない劇場に一日で1800人も入りました。朝4時頃からお客さんが並んでいて、従業員が出勤する頃にはもう長蛇の列で…仕方ないから8時から上映を繰り上げたんです」それでも入りきれないお客様に整理券を配ったまでは良かったのだが、その時、事件が起こった。「今でこそ整理券は当たり前ですが、当時は整理券慣れしていないため、配っていた私の叔父が、“これ持っていたら入れる”って説明しちゃった(笑)」その後はご想像の通り、並んでいる女の子たちが一気に入り口に押し寄せたのだ。「押すな押すなの群衆心理ですよ…収集が付かないから、土浦警察署に電話して警察官3人に来てもらいました」 |
県南の中心部が土浦だった事から休日ともなると買い物と映画を楽しんだ後に食事をして帰るというのがお決まりのコースだったようだ。遠いところでは千葉県佐原市から水郷汽船で霞ヶ浦を渡って映画を観に来た方もいたという。何とも粋な余暇の過ごし方ではないか。 前身は、昭和30年に設立された“祇園会館”(以前この界隈は祇園町という地名だった)という芝居や浪曲を行う木造二階建て200席のホールだった。「向かいに郵便局の本局があったので、公共物から近い場所には火を使う施設を建ててはならないという条例があったため許可が下りなかったんです」可燃性だったフィルムを強い熱を放つカーボンで投影していたため、映写室から出火する事態が続いていた時代らしいエピソードだ。「実は、映写室は予め作っておいて、しばらくは会館として運営していたんです。だから館名も映画館っぽくない“祇園会館”と(笑)」それから間もなく、本局が移動して待望の許可が下りた昭和32年に"祇園セントラル映画劇場"と館名も新たに堂々とオープンを果たす。とはいうものの古くは大正時代からある映画館が軒を連ねる土浦では後発だったため、新作はなかなか回って来ず、二番館としてのスタートとなる。当初は、寺内家が所有していた映画館を貸して別の個人が運営していたが、昭和38年に寺内氏のお父様・龍太郎氏が映画館を引き継ぎ、義弟の梅村昌三郎氏が支配人となる。待望の東宝とヘラルド映画の封切館となったのはその頃だ。「人気があった東映や松竹のような大手は既存館とガッチリ関係が出来ていて、その時声を掛けてくれたのが、この2社だったのです」
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寺内氏にとって“劇場版 ドラえもん”の一作目もヒット作であると同時に、興行における機転を利かせる重要性を実感する作品となった。「社長も支配人も古い時代の人間ですから、子供向けのアニメなんて朝一回だけやればイイ…くらいにタカを括っていたんですよ」当初、同じ日に封切りだった“地獄の黙示録”をメインに置いて“劇場版 ドラえもん”は朝一回のみのプログラムを組んでいた。「当然、一回目に入れないお客さんがいっぱい出てしまったんです。中には佐原からタクシーで来られた女性がいて…まさか一回で終わるなんて思ってもみなかったんでしょうね」午後になって続々と増えるお客様を前に、大学生だった寺内氏は近所にあるキャパシティ1000席もある市民会館で急遽上映を敢行して、お客様を誘導したのだ。実は、寺内氏は春休みで殆ど利用されていなかった会館を事前に仮抑えしておいたのだ。この判断が正しかった。「最初は50人くらいしか並ばないので“こんなもんかね?”って言ってたら、売っても売っても列が切れない。即席の切符売り場の下に段ボール箱を置いて、お札を足で踏みつけながらチケットを売っていたんです」最終的には1000席完売どころか立ち見になったという。 こうして斜陽化が囁かれていた中で回復の兆しを見せた昭和57年に、“祇園セントラル映画劇場”を取り壊して(ラストショーは“連合艦隊”)翌年、2スクリーンを有する“土浦セントラル劇場1・2(現在3・4)”という館名でリニューアルオープン。「その年の夏に“南極物語”が大ヒットですよ。暑い時期にも関わらず、外の階段を大汗をかきながら皆さん並んでいてね…。上映時間が長い映画だったから、1日4回しかやれないのに、キャパ210席の劇場で1日の入場者数が1000人を連日越えてました」更に昭和62年には2スクリーンを増やして、現在の4スクリーン体制となる。「当時、東宝の重役から“これからは複数館の時代だよ”とアドバイスされたのがキッカケです」映画館だけではなく飲食店などテナントが入る複合型商業ビルの建設は、まさにシネコン走りだった。「このアドバイスと、東宝が優先して作品を出してくれたおかげで、生き残ってこれたのだと思っていますよ」10館あった既存館が次々と閉館していく中で、今では市内に既存館が『土浦セントラルシネマズ』のみになった分岐点はここにあったのは間違いない。 駅から歩いて来られる立地のため、車を使わない年輩層から中高生、子供連れのお母さんが多く、劇場がビルの中にある安心感から、子供を入場させて買い物に出かけるお母さんの姿をよく見かけたという。また、夏休みや春休みになると孫を連れて来場するお年寄りが多くなる。「その時期は、物販の売上がすごいんですよ。ポケモンでは一回の興行収入の倍近くを稼いじゃうんですから。やっぱり孫が可愛いんでしょうね、全種類下さいっていうお祖父ちゃんがいるくらいですから(笑)」また、1年のロングラン興行となった“タイタニック“に訪れたのは若い女性が中心。中には18回も観に来た女の子もいたという。「また泣きに来ちゃった…って、いつも照れ臭そうに言うので途中から割引いてあげましたよ」 現在は、東日本大震災で被災したスクリーン3と4を一時休館して、スクリーン1と2のみで営業されている。「本当は早く補修工事をして営業再開したいのですが、まずは建物の補強を最優先…自分の映画館は後回しです」そしてもうひとつ抱える問題はデジタル化。補強工事を優先したため今でも映写はフィルム上映を余儀なくされている。 |
「近いうちに今稼働している2スクリーンをデジタル化して、余力が出来れば休館している劇場の補修ですね」寺内氏は全スクリーンで再開する時は、4スクリーンの強みを活かした劇場作りを構想中だという。「例えば、2スクリーンをアニメ専門と名画座にするとか。これからの時代、シネコンと勝負するなら歩いて来られる場所にある強みを活かしてお客様に合った作品を上映しなければ…と」既にデジタル設備導入へ向けて準備を始めている寺内氏は、お年寄りや子供たちが歩いて来られる場所で映画という文化の灯を消さないように踏ん張り続けたいと語る。「今どきお年寄りが2時間を1000円程度で過ごせる場所なんて、そうそうあるもんじゃない。寝っ転がってお菓子食べながら見るのはテレビ映画であって“映画”ではない。いくらホームシアターが発達しても所詮、家庭用ですから、やっぱり映画は大きい画面で観なきゃ。そのために私たちは常に最高の設備を導入して万全の体制で映画を送り続けて来たのですから」(2014年7月取材) |