隅田川と荒川に挟まれた東京の下町・錦糸町。JR総武線と東京メトロ半蔵門線が乗り入れ、近年では東京スカイツリーの街として多くの観光客が訪れるようになった。南口は、今でも昭和の香りが色濃く、昔から続く鮮魚店と歓楽街が存在するなど、独特の猥雑感が漂う。日露戦争後、錦糸町の工場地帯で働く人々に「健全明朗な娯楽を提供しよう」と東宝の創設者である小林一三氏が、省線(現在のJR総武線)沿いに広がる5000坪にも及ぶ汽車製造工場跡地を買い取り、映画館や芝居小屋、仲見世、遊技場など、大人から子供まで楽しめる関東最大の街を作り上げた。それが、江東楽天地である。 |
江東楽天地は壊滅的被害を被るも“本所映画館”と“江東劇場(内部は焼失してしまったが)”だけが奇跡的に難を免れて、楽天地の焼け跡には戦後、闇市が出来、着々と復興を進めていった。“本所映画館”は昭和20年6月から、昭和21年正月には“江東劇場”が再開した。当時、丸の内以外ではあり得なかったロードショウ作品“若草物語”を公開してロングランヒットを記録。女性4人姉妹を無料招待するという企画も話題となった。いよいよ娯楽の中心は映画という時代に突入した昭和25年には“花月劇場”跡に、松竹封切館のキンゲキという愛称で親しまれる“錦糸町映画劇場(580席)”を開場する。テレビの本放送が開始されると、映画館も対抗策として大スクリーンの時代へと突入して、昭和28年には、“江東劇場”と“本所映画館”にワイドスクリーンを設置。翌年、英国ゴーモン・ケリー社のシネマスコープを“本所映画館”に据え付け、東京では二番目のシネスコ劇場として“聖衣”の大ヒットを記録した。 |
駅側の入口に、客席数1470席を有する鉄筋コンクリート構造の地上2階建ての映画館“本所映画館”と、芝居と映画両方に対応した客席数1508席を有する大劇場“江東劇場”を昭和12年12月3日にオープン。時代は正に日中戦争に突入して戦時体制が強まっていた頃にも関わらず、初日は多くの物見高い江戸っ子たちが、東宝から出向していた案内係がかけているパーマを見ようという好奇心から開場前から人だかりが出来ていたそうだ。翌年の昭和13年4月の行楽シーズンには吉本が運営する“江東花月劇場”が開場。同時に大食堂や仲見世、遊園地などの施設も完成したおかげで、10万人を超える来場者で賑わい、それぞれの映画館も最高入場者数を記録した。しかし、開戦と共に上映される映画も少なくなり、軍の検閲を受けた戦意高揚のものばかりだったが、それでも庶民は映画を娯楽として楽しみに映画館に通い続けた。そんな状況に追い打ちをかけたのが昭和20年3月10日未明の東京大空襲だった。
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11月にはパチンコ遊技場を改装して洋画特選劇場の“江東文化劇場(200席)”を、12月には邦画特選劇場の“江東地下劇場(156席)”をオープンする。さらに、翌年4月に、ニュース映画とターザンやエノケンを組み合せた児童向け映画劇場の“めばえ座(203席)”とTY系封切館の“リッツ劇場(1000席)”といった江東楽天地直営の映画館が軒を連ね、ここに来れば殆どの映画を観ることが出来た。そして、その後も吉本が運営する大映・東映・新東宝の封切館“江東吉本映劇”とSY封切館“江東花月映劇”が完成して、最盛期の昭和30年代には9館の劇場で形成され、浅草六区に次ぐ映画街にまで成長したのである。この頃の江東楽天地には屋上から空中ケーブルカーが出ているスポーツランドや遊園地、場外馬券売り場が新たに仲間入りを果たし、戦前以上の規模にまで成長していった。昭和36年には、社名を江東楽天地から東京楽天地に改め、“本所映画館”と“江東劇場”を単独の映画館から江劇ビルと本所ビルへと大規模な改修工事を行い、このふたつのビルは錦糸町駅のランドマークとなった。昭和40年に入ると空前のボウリングブームが到来し、逆に斜陽化の波で客足が少なくなった映画館を閉館してボウリング場に切り替える決断を下した。そのひとつが、昭和46年5月に長きに渡って親しまれてきた“本所映画館”の閉館である。それから10年後…多様化するレジャー時代に合わせて、ひとつの節目が訪れた。楽天地再開発工事の着工である。
現在『楽天地シネマズ錦糸町』が入る東京楽天地ビル本館が完成したのは昭和58年11月。直営館であった4館が、“江東劇場(現CINEMA1)”、“キンゲキ(現CINAMA2)”、“本所映画館(現CINAMA3)”、“リッツ劇場(現CINAMA4)”という館名を継承して新しく生まれ変わったのだ。しかも“本所映画館”に関しては、旧館が閉館してから12年ぶりの復活であった。オープニング記念として「らくてんち映画まつり」と銘打ったチャリティイベントやゴジラ映画6本立てのオールナイト、“居酒屋兆治”のチャリティ試写会、洋画8本立てのシネマラソンを開催。ユニークだったのはシネマオークションとして、実際に使用されていた映写機やスクリーン、シートなどの即売だった。昭和61年11月には、LIVIN側に“錦糸町スカラ座”とセゾンが経営するミニシアター“キネカ錦糸町”がオープン。その後、“キネカ錦糸町”の経営を引き継ぎ、更にはLIVINに入っていた書店を2スクリーンの映画館に改装して、館名を“錦糸町シネマ8”に改める。これを機に場内とロビー周りをリニューアルして、長年親しまれていた劇場名を番号で表示されるようになった。「今でも事務所の備品には、昔の館名で表示しているのが残っていて、年輩の社員は未だに昔の劇場名で話しますよ(笑)」と語ってくれたのは興行部長を務める友江博之氏だ。 |
友江氏の記憶に残る作品としては、1年というロングラン興行を打ち出した“タイタニック”で、1作品における興行収入の記録は未だに破られていない。「幅広い世代のお客様がリピーターでいらして、顔見知りになったお爺ちゃんと女子高生がロビーで“今日で何回目です”と話したり、映画の感想を語り合っている光景をよく見ましたね。こうした良い作品に巡り会えるのが、一番嬉しい事ですね」下町という土地柄だからだろうか…今でも気さくに“面白かったよ”と、話かけてこられるお客様が多く、時代が変わっても泣き笑いを他の人と共有するという映画館の醍醐味が残っているのが嬉しい。「ウチみたいな昔ながらの劇場が年々減ってきているので、逆に希少価値という部分もあるかも知れないですね。もうしばらく今のスタイルで頑張ってみようなかな?と思う反面、どうしてもシネコンで育った世代がメインになってくるのは仕方がない。いずれは時代に合わせてシフトしなくてはいけない…と思っています」小林一三氏が立ち上げた江東楽天地の創立から間もなく80年という節目を迎えようとする現在、「いずれはビルだって老朽化するわけですから、よく頑張ったよって言われるまで(笑)は、今の映画館のまま頑張って行こうと思います」常に娯楽を追求してきた楽天地というブランドが、これからどのように変化していくのか、今から楽しみだ。(2015年2月取材) |
1階のチケット売り場で、お目当ての作品を購入してエレベーターで上がると、4階と6階に『楽天地シネマズ錦糸町』がある。中央を売店で仕切られたロビーの奥には待ち時間をゆっくりと過ごせるスペースがある。ワンスロープの場内は天井が高く、スクリーンが大きいのが特長だ。年輩の昔ながらの常連客がメインとなるコチラでは現在も全席自由席にしている。「やはり完全入れ替え制で、全席指定という劇場に抵抗を感じて敬遠されているお客様が多いのですが、それでもシネコンのシステムが浸透してきているのか、以前に比べて、そういった声が少なくなってきています」最近、東京楽天地は、錦糸町駅の反対側に、シネマコンプレックス“TOHO シネマズ錦糸町”を立ち上げて、上映作品の差別化を図っていると友江氏は語る。「同じ駅にあってもお客様の層が違いますので向こうはファミリーや若い方が中心。逆に『楽天地シネマズ錦糸町』は駅からのアクセスが良いのですが、いらっしゃる方は地元の昔からお越しいただいている年齢のお客様が中心。ですから、ココでは大人向けの落ち着いた作品をメインに作品を選んでいます」ちょうど年齢層がドンピシャ当てはまった東宝の目玉企画である“午前十時の映画祭”の名作上映はコンスタントに入場者数が確保出来ているそうだ。「昔の映画を映画館で観たい…というお客様の声が根強くあるのだと実感しています」
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【座席】 【住所】東京都墨田区江東橋4-27-14楽天地ビル |