『男はつらいよ』第1作目、生まれ故郷―柴又に戻って来た寅次郎が、“とらや”に戻る前に、祭に誘われて訪れる場所が、“柴又帝釈天”であった。正に帝釈天まいりの「宵庚申」で賑わうお寺の境内で、笠智衆演じる御前様と寅次郎が20年ぶりに再会する場面から始まったわけである。以降は、家族と喧嘩をした寅次郎が身を潜める避難場所となったり、久しぶりに帰って来た寅次郎が源ちゃんや近所の子供たちとチャンバラゴッコに興じる遊び場だったり…時には、自堕落な生活を続けている寅次郎を御前様が厳しく叱る修行の場でもあったり…と、寅次郎を優しく、時には厳しく見守る場所として存在していた。

 “柴又帝釈天”は、江戸時代の初期、寛永6年に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。創建は江戸時代初期の寛永6年で、開山は中山法華経寺19世の禅那院日忠であり、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされている。“柴又帝釈天”の中興の祖と言われているのが9世住職の亨貞院日敬という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされる。日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、“柴又帝釈天”への信仰が広まっていったという。“柴又帝釈天”が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。


 “柴又帝釈天”の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として知られた。『男はつらいよ』のヒットによって主人公・車寅次郎ゆかりの寺として知られるようになり、年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、今でも観光バスの団体客が大勢訪れている。

 京成電鉄柴又駅前から伸びる参道を両側に建つ名物の草だんごや塩せんべい屋、老舗の川魚料理店などを眺めながらテクテクと歩いていると目の前にそびえる二天門が目に入る。門をくぐると、正面に帝釈堂、右に祖師堂(本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが見える。参道から境内へと誘う「二天門」は、明治29年に建立され、入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付し、柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施こしている。境内に入って正面に見える「帝釈堂」は、拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年、拝殿は昭和4年に完成。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されており、中でも法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化した胴羽目板の法華経説話の浮き彫りは見事で、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している。

柴又帝釈天 日蓮宗【山号寺号】経栄山題経寺
東京都葛飾区柴又七丁目
柴又 帝釈天ホームページ

 



Produced by funano mameo , Illusted by yamaguchi ai
copylight:(c)2006nihoneiga-gekijou