昭和20年8月6日午前8時15分―原子爆弾リトルボーイが、アメリカ合衆国トルーマン大統領令を受けたエノラ・ゲイによって投下。市内ほぼ中央に位置する相生橋上空580メートルで炸裂した原子爆弾によって当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡した。

 『原爆ドーム』の名で知られる広島平和記念碑は、広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑であり、原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰に位置する元の「広島県物産陳列館」である。南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がり、世界中から多くの人々がこの地を訪れ、平和への祈りを捧げている。『原爆ドーム』は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、“負の世界遺産”と呼ばれている。

 広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展し、経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェルであり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。1921年(大正10年)に広島県商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館に改称。盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献していた。


 原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存。爆心地付近では数少ない被爆建物として残った。『原爆ドーム』は原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代に入ると、年を追って風化が進み、危険であるという意見が起こった。広島市当局は当初、経済的に負担を理由に、取り壊される可能性が高まったが、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病で亡くなった女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記から保存を求める運動が始まり、1966年(昭和41年)に広島市議会は永久保存することを決議する。

 原爆の悲劇を描いた映画には必ずと言っても良い程、登場する『原爆ドーム』を映画で初めて捉えたのは新藤兼人監督作品『原爆の子』であった。原爆投下からまだ10年も経っていない時期に製作されたこの作品に映し出される広島は全てが吹き飛ばされてしまったという印象を受ける程、何も残されていない焦土と化していた。乙羽信子演じる主人公が広島の街を歩くと、どこのアングルからも『原爆ドーム』が背景に映っており、まるで冷ややかに広島の惨状を見下ろしているかのようであった。

 



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