KOTOKO
琴子の歌が、祈りが、世界を震わす。生きろ、生きろ、生きろ。
2011年 カラー ビスタサイズ 91min マコトヤ配給
製作、監督、企画、脚本、撮影 塚本晋也 企画、原案、音楽、美術 Cocco 撮影、照明 林啓史
特殊メイク、特殊造型 花井麻衣 整音、音響効果 北田雅也
出演 Cocco、塚本晋也※「塚」の漢字は点が入る表記となります。
ブリリア ショートショート シアター、横浜シネマ・ジャックアンドベティほか全国ロードショー公開中
(C)2011 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
人が生きることの苦しさと美しさを極限まで描いた「母と子の巨大な愛の物語」。魂に共鳴する歌声、心揺さぶる詞、独特の世界観と圧倒的な存在感で人々を魅了するシンガーソングライター、Cocco。『鉄男』や『六月の蛇』と新作を送り出すたびに、その類まれな映像言語で世界中のファンを震撼させてきた塚本晋也。それぞれの世界で超然と創作を続けてきたふたりが、共鳴し合い、火花を散らし、映画史上の“奇跡”を作り上げた。強烈な個性のアーティストふたりが作りあげた、壮絶で巨大な愛の物語。日本映画初の、第68回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門最高賞(グランプリ)を受賞。『KOTOKO』 は、大事なものを守ることが一層難しくなるであろう近い未来、それでも生きなければならないと全力で語りかける愛と祈りの映画だ。
※物語の結末にふれている部分がございますので予めご了承下さい。
琴子(Cocco)はひとり、幼い息子・大二郎を育てている。彼女には世界が“ふたつ”に見え、油断すると命にかかわる日々。だから琴子はいつも気が許せない。どんどん神経が過敏になっていく。大二郎に近づいてくるものを殴り、蹴り倒し、必死に子供を守ろうとする。彼女の世界が“ひとつ”になるのは歌っているときだけだ。琴子は大二郎の喜ぶことはなんでもする。お手製の玩具を作る。散歩に連れていく。でも大二郎は激しく泣き続けるばかり。外に出る、高い所に立つ。もしも抱いている手を離してしまったら?強迫観念が琴子を追い詰める。ついには幼児虐待を疑われ、大二郎は遠く離れた彼女の姉のもとに。しばらく経ったある日、琴子は大二郎に会うために沖縄へ向かう。沖縄の自然の中、大二郎はすくすく育っていた。家族の中で笑顔を取り戻す琴子。数日後、東京に戻った琴子に、小説家の田中(塚本晋也)が近づいてくる。バスの中で聞いた琴子の歌声に魅了されたという彼を、彼女は暴力で遠ざける。田中は傷だらけになりながらもやってくる。ついには結婚指輪を携えてきた。自分では答えを出せない琴子は、田中とふたりで大二郎のいる沖縄を訪れる。沖縄で、田中とともに穏やかに眠る大二郎を見て、琴子は「私は幸せになる」と心を決める。琴子が、ようやく世界はひとつになった、と感じた途端…。
塚本晋也監督は自身の作品の中にはあまり余計な情報は詰め込まない。登場人物の背景や生い立ち…といった人物設定やサイドストーリーは全て排除して、描くべく物事の本質のみにひたすら肉迫する。そして、観客は塚本監督が提示する映像からインスピレーションを働かせ、自分なりの考えを構築させていく。それは『鉄男』の頃から一貫して変わらない独自のスタイルだ。本作も然り、琴子という主人公に関して、観客に情報は一切与えられず、いきなり冒頭から彼女の目を通した不安定な世界を見せつけられる。ただ、今までの塚本監督の映像手法と似て異なるのは、真っ白なキャンバスに叩きつけるように色を次々と重ねていく畳み掛けるような映像のイメージ。そこにはCoccoという塚本監督がインスパイアされる女性アーチストの存在があるからだと思われる。
今まで海獸シアター作品に登場する主人公たちが発する言葉は塚本晋也の言葉であり、胸にガンガン響いてくるノイズや打楽器、金属音は塚本晋也の叫びであった。しかし塚本監督がCoccoと映画を作るためにインタビューを繰り返して原案が生み出された本作は違う。主人公のモノローグはCocco自身の言葉であり、古い団地の階段を駆け上がる足音やヒステリックに叩く鉄の扉はCoccoの叫びだ。彼女が演じる琴子は、日常の中ですれ違う自分とは何の接点も無い人々に笑顔の陰に潜む“邪悪なもう一人の人間”の姿を見る。精神的な病?…と結論づけるのは簡単だが果たして彼女が見るものを幻影と片づけてしまってよいものだろうか。以前、優しそうな女性が公園や道端にいる母子に近づき親の目を盗んで赤ちゃんを傷つけていたという事件があった。汚れているものならば触らなければイイ…ところが厄介なのは人間の心の汚れは外から見えない事だ。ならば、どうやって愛する者を守る事が出来るのか?前述した塚本監督が色を重ねるように…という表現手法を用いているのは、Coccoの答えが出るはずのないエンドレスな問いかけを具現化しているからではないか?
しかし、別の視点から観ると琴子自身も、この何も信じる事が出来ない現代の狂気に取り込まれているようにも思える。つまり、狂気に満ちた現代の中で母性を保つための手段として自分を傷つける事によって自身の内にある狂気を抑えつけようと(封印…といった方が適当か)しているように見える。このままでは我が子に手を掛けてしまうのは他人ではなく自分自身である事を早い時期から予感していた彼女は暴力の矛先を常に探しているようにも思えるのだ。中盤あたりから塚本監督が演じる田中という有名な作家が出て来るが琴子は「あなたの歌に惹かれた」とプロポーズしてくる男の手にフォークを突き刺す。何故か男はそんな目に合いながらも琴子の前に頻繁に姿を現す。ここでふと、ひとつの疑問が生じる。果たしてその男は実在するのか?実は琴子が生み出した妄想ではないか…という仮説だ。(事実、男の出現から次第に琴子はふたつの世界を見ないようになる)そして、男が姿を消し、入れ替わるように息子の姿が二重に見えた時(子供が自我に目覚めた瞬間?)、自分でコントロール出来ない感情が溶岩の如く湧き上がる問題のシーン(鼻水を垂らし泣きながら我が子に手を伸ばすCoccoの演技は凄い!)は、子供の魂に永遠を求めようとする究極の母性愛が行き着く果て…のように感じたのだが。
「体は生きろと言う」琴子が自らの体を傷つけるシーンのモノローグ。後半、血だらけの彼女を見つけた男が「大丈夫ですから」と連発する言葉が、それに呼応する。