6月1日から25日まで開催された「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア 2017」。グランプリを受賞したのはミャンマーの映画『シュガー&スパイス』というパームシュガーを使ったお菓子で生計を立てる監督の両親の姿を捉えたドキュメンタリーだった。今年のアジア映画で特に私が印象に残ったインド映画『おじいちゃん』も中国との国境にある電気も通っていない辺境の村が舞台。そこに暮らす村人たちは映画なんて観た事もない…そんな村人を出演させたフィクションという事に驚いた。両者はドキュメンタリーとフィクションという両極端に位置しながら、人間が生きて行く中で大切なものとは何か…を問う意味にいては共通するテーマの作品だった。

 昨年は会期も会場も広がりを見せた映画祭だったが、今年はそれらを定着化して、これからの映画祭の在り方を主催者側が見極めていた…言葉を選ばずに言うとするならば、今までに試みた実験の成果を来年の20周年に向けて完成形に近づけた重要な年だったと思われる。中でも広告とショートフィルムをミックスさせた新しいビジネスの創造を掲げた「ブランデッドショート」は、更なる拡充を見せており、充分な手応えを感じたのではないだろうか?昨年の映画祭は、ドローンやVRなど映像分野における技術革新を前面に押し出していたが、今年は会場にVRの体験コーナーを設け、観客側のVRに対する認知を広めようとしていたところに、来年の映画祭では何か大きな施策に売って出るのでは?と、(やや前のめり気味かも知れないが…)期待を持ってしまった。

 新しい観客創出の試金石となったのは、EXILE HIROとの共同プロデュース「シネマファイターズ」だ。数多くEXILE TRAIBEの楽曲を手掛けてきた小竹正人の世界観を6名の監督によるショートフィルムには、今まで映画祭には見られなかった多くの観客が詰めかけた。全ての上映会が即日満席となる異常事態となった。河瀬直美監督をメインの監督として参加した事で、口うるさい(失礼)シネアストたちも納得した企画ではあったが…。言ってみれば、この企画にしても長年、ミュージックショートを手掛けてきた実績があればこそ。中でも常盤司郎監督の『終着の場所』(“花火”をモチーフとした作品)が素晴らしかった。さすが、7年前のミュージックShortに初エントリーした作品が、優秀賞と観客賞をダブル受賞しただけあって、心憎いくらいにツボを押さえていた。今回、観客の反応を見てEXILE以外にも、ひと組のアーチスト(国内に限らず)とコラボするのもアリではないかと思った。

 一方で、セミナーやシンポジウムなどが技術革新に寄り過ぎて、一般作を撮り続けている大半の学生クリエイターたちには、少々物足りなさを感じてしまったのではないだろうか?まぁ、これも20周年に向けての布石…と考えれば、大きく飛躍する可能性を秘めた確信犯のような気もするのだが。近年では、10月に東京都写真美術館で開催される東京国際映画祭との協賛企画に、若手クリエイターや学生向けのセミナー、ワークショップの機能を分散させているため、この辺りはもう少し様子を見たいところではある。ある意味、こうした今まで映画祭が取り組んできた事の成果が見えてきた年でもあった。去年一昨年…と、2年連続して開催されたアジアの映像クリエイターによるシンポジウムに触発されたのか、今年、コンペティションに集まった日本映画に変化を感じたのだ。総体的な印象として、日本人を善きにつけ悪しきにつけ、日本民族として特徴を捉えていた作品が多く見られたからだ。


 まずは、ジャパン部門で最優秀賞を受賞した『born、born、墓音』に注目。三度目の正直で受賞となったガレッジセール・ゴリの悲願が見事に実った。沖縄の粟国島で行われている風葬という文化を描いている彼らしい作品だ。夫(ゴリ)の三年前に亡くなった父の遺骨を洗骨するという風習に馴染めない妻(佐藤仁美)は、頑なに参列を拒む。洗骨というのは何年もかけて棺桶の中で自然に骨だけとなった親族の骨を読んで字の如く洗う…という沖縄県の一部にまだ残っている風習だ。ゴリ監督は、本土の人間である妻を物語の中核に配置する事で、地域による理解と無理解をひとつの家族に凝縮させた。印象的なシーンがある。そんな嫁の態度に怒っていた義兄だったが、洗骨の前日に、自分も父親の遺体がどんな状態になっているか怖いなぁ…と弟のゴリに漏らすシーンだ。もう少し語り合えば理解出来る…これは現在の基地問題に揺れる沖縄と本土との確執にも通じるものを感じた。

 悲しいかな海に囲まれた島国の日本人は隣人(隣国)との付き合い方が大陸に比べてヘタクソだ。それを逆手にとって笑いに転化していたのが三宅伸行監督の『サイレン』。津川雅彦演じる古びた団地に住む独居老人の隣にアラブ系移民の男が越してきた。言葉が通じない上に、アラブ系=テロリストという偏見と先入観で、その老人の目には、男の行動全てが怪しく映る。単一民族国家(もはやこれも死語と化しているのだが…)であるが故のプライドが、隣国との関係を邪魔してはいないか?そんな日本の将来像が付き合いベタな独居老人の姿に被る。

 また日本人的な優柔不断によって、その家の三姉妹全員と付き合っていた事が発覚するという修羅場を体験する事となるジョニーと呼ばれる若者の悲劇を描いた『ジョニーの休日』は、現代日本の政治家そのもの。彼女の家に初めて呼ばれた主人公ジョニーは、二人の姉とも過去に付き合っていた事が明らかになる。同じ名字の女性三人…ここで不思議にも思っていなかった主人公のノーテンキさは、三姉妹全員に見透かされていたというのもゾッとするが、この男…極めて日本人的でもある。三姉妹が男を脅したりスカしたり…それでもおおよそ予定調和で妥協するあたり、日本人の良いところでもあり弱点でもある。自分を持っていないため、結局は誰にも誠実になり切れていないモテ男くんが追い詰められて行く姿に笑いながら、それが日本人だよな…と実感して溜息をつく。小さな食卓に日本社会が浮き彫りになった逸品だった。他にもスポーツ映画を本物のアナログで見せるCGスポーツものに対するアンチテーゼとも取れる『ピンパン』(柳英里紗がすごい!)等々、例年以上の秀作揃いだった。

 勿論、課題と不満も残る。国内に山積している問題に向き合った作品が、例年通り、あまりにも少ないことだ。映画という文化の発展してきた歴史を見ても社会に対する不満や怒り…というものが大きく影響を与えてきたのは間違いない。メジャー系の映画では難しい題材でも、それを積極的に作り発表してきたのがATG作品であったように、ショートフィルムがその役割を果たせるのではないか?と思うのだが…。ツイッターでは短い言葉で自分の主張を表現する事に長けている割には、そのど真ん中にいる若いクリエイターが何故それを映画で表現出来ないのか?とさえ思う。近年、日本は様々な局面において、大きな変革を求められている。誤解を恐れずに言えば、現在の日本はそうした映画の題材に溢れている好機ではないか。アワードセレモニーの壇上で大林宣彦監督が述べられていた「映画の力は人事を我が事に取り戻す力」なのだから、もっと映画の力を信じた大意を感じさせてくれる作品に出てきて欲しい。また全体の総評で次のようにも述べられた「切迫感がなかった。世界中の作品がそれぞれの立場において、ヒリヒリするような時代を描いているが、日本って甘やかされた国なんでしょうかね?危機感の無さに怯えておりました」という言葉は、全く同感だ。ともあれ、来年はいよいよ映画祭も20周年。間もなく公募も始まろうとしている。20年前とは現在の日本を取り巻く環境も世界情勢も全く異なっている。恋愛も笑いも勿論イイが、その根底にもうひとひねり…若い作家たちの心の声を感じさせる映画をそろそろ観たい。



日本映画劇場とは看板絵ギャラリーお問い合わせ

Produced by funano mameo , Illusted by yamaguchi ai
copylight:(c)2006nihoneiga-gekijou