『男はつらいよ』の第1作目が誕生してから、最終作『紅の花』まで製作本数48作。これ程までに、この映画が日本人に愛されたのはどうしてだろうか?厳密に言うと観客は『男はつらいよ』の中に出てくる車寅次郎が好きなわけで、寅次郎がいなければ『男はつらいよ』は成り立たないのである(当たり前だが)。では、改めて…どうして寅さんは、多くの日本人に愛されたのか?。『男はつらいよ』は、盆と正月に必ずと言ってよいほど映画館に掛かっており、家族で観に行く年中行事のひとつになっていた。また、テレビでもしょっちゅう放映されており、気がつけば寅さんに接っしていた。それだけ長い年月やっていると、当たり前の話しだが、生身の出演者は回を追う毎に歳をとっていく。歳をとるからには寅さんだって、いつまでも1作目のままというわけにはいかない。イイ歳したオジサンが毎回同じ過ちを繰り返していたら観客だって「いい加減学べよ!」と、そっぽを向いてしまっただろう。(社長シリーズがプログラムピクチャーの終焉と共に終わったのは、主人公の社長が学習能力なく毎回同じ失敗を繰り返していたからだ)“サザエさん”のような歳をとらないアニメと違い(たまに同じ失敗で叱られるカツオの行動にイラっとするでしょう?)1作目では赤ちゃんだった満男も26年も経てば大人の男になるわけで…そう、いつしか『男はつらいよ』シリーズは“寅次郎成長記”になっていたのだ。『男はつらいよ』は基本となる骨子を変ずに主人公が成長していく過程を見せる事で連続性を待たせたのがロングランシリーズになった要因…と言って良いだろう。明らかに1作ずつ寅次郎は何かを学んでいる。ただし、マドンナにフラれ続けたからといって恋愛について学習する…とまでは最後まで出来なかったが。

 物語の主軸がマドンナにひと目惚れする寅さんのドタバタ劇だとすると、数々の名優が演じる大家(たいか)と寅さんが旅先で出会い、人生の師となったり、逆に寅さんに救われたりする人情劇がサイドストーリーとして存在する。むしろ寅さんの成長は、こちらのサイドストーリーの方にあると言っても良いだろう。旅先で寅さんと関わり、人間の在るべき姿や人生について教えてくれた先人たちの言葉から寅さんは、反省し、頭を垂れつつ柴又へ帰るのである。寅さんに一番、影響を与えたのは博の父(なんと!シリーズ3作品に登場した)であろう。朴訥とした演技で寅さんだけではなく多くの観客に感動を与えた志村喬の晩年の当たり役と言っても過言ではない。8作『寅次郎恋歌』では、「りんどうの花が咲く家の茶の間で家族団欒の光景を見て、それが本当の人間の生活なのだ」と寅さんに語るシーンはシリーズ屈指の名シーンであった。放浪の旅を続け、ひとつの所に定着をしない寅さんだからこそ、実感して理解出来る事であり、これをとらやの人間に寅さんが説明してもピンとこない。先人の言葉から寅さんが自分自身を見つめ直すキッカケとなり、この事があったからこそラストでシリーズ初、寅さん自ら身を引く事となるわけである。続く22作『噂の寅次郎』でも二人は旅先で偶然出会い、今度は“今昔物語”で人生のはかなさを説かれる。翌朝、“今昔物語”の本と汽車賃を拝借して帰って行った寅さんの手紙を読んで「大人物は反省したか…」とつぶやく志村喬の言葉が印象に残る。また、寅次郎の高校時代の恩師(東野英治郎)は、訪ねてきた寅さんを「お前はバカだ!」と言いながらも実直な性格を認めており、最後の最後まで寅さんを可愛がっていた。また、寅さんに一目を置く人には巨匠や名人と呼ばれる人物が多い。名作と高い評価を得ている17作『寅次郎夕焼け小焼け』では宇野重吉演じる日本画の人間国宝と対等に接し、普通ならあり得ない寅さんの無理な頼みも渋々引き受けてしまう。29作『寅次郎あじさいの恋』でも片岡仁左衛門演じる陶芸家の人間国宝に頼られ親交を深め爽やかなラストシーンが出来上がった。偉い立場の人になればなる程、寅次郎を認めているのが本シリーズの特徴であり、観客に愛される所以であろう。後期の名作として名高い38作『知床慕情』では三船俊郎演じる気難しい知床の獣医と対等に渡り合うどころか恋の指南役まで買って出る程。むしろ、この頃の寅さんは、あまり馬鹿な真似はせずに本当に、ちょっと間の抜けた良い兄貴分という役所になっていた。だから、さくらも泣く回数が徐々に少なくなり(相変わらず心配はしているが…)時には満男の相談をするようになる。

 後期になると寅さんも自分の恋話しは脇に置いて、若者たちの良きアドバイザー役となり、満男の出演時間の方が寅さんよりも多くなる。これは、渥美清の体力が年々落ちてきたために物語の最初から最後までハイテンションで寅さんを演じるのが難しくなったためだろうが、逆にこの交代劇が幸をそうしたと言える。それには吉岡秀隆という天才子役がいたからで、彼無くしては後期の『男はつらいよ』は有り得なかったかも知れない。寅さんは、41作目『僕の伯父さん』から恋に悩む甥っ子満男を見守る伯父さんとして応援する立場となる。この作品では満男が密かに想う後藤久美子演じる泉(この作品から寅次郎ではなく満男のマドンナが登場)が住む佐賀に行くのだが、そこで泉の堅物な伯父が追いかけてきた満男に批判的な言葉を浴びせる。さて、今までの寅さんならば「何だ!テメェこの野郎!」って大喧嘩に発展するところだが、何と寅さんは淡々と「私は甥を誉めてあげたい」と語るのだ。正直言ってこのシーンを観た時は、余りの寅さんのカッコ良さに全身の毛が逆立った。そういえば同じ思いを27作『浪花の恋の寅次郎』でも感じたなぁ(詳しくは特集2にて紹介)。寅次郎の変化について渥美清本人も満男の良き相談相手となった事について、こう語っている。「それでもいいんじゃないでしょうか。寅の精神構造も押しつけがましい事はできなくなっているし、年からいってもそういうことは面映ゆくなってきている。当然のことなんでしょうね」思春期や反抗期を迎えた子供に対して攻撃の対象となる親は第三者に全てを委ねるしかない。満男編が始まったのは、自然の流れなのである。その少し前…36作『柴又より愛をこめて』では、裏のタコ社長の一人娘・あけみ(美保純が好演)が家出した時に寅さんに泣きついたのは、いつも寅さんをバカにしているタコ社長だった。実は、満男編の以前にあけみ編が存在していたのだ。父親をタコと呼び、聞く耳を持たない彼女は寅さんにだけ心を許す。勿論、あけみを連れ戻しに下田に向かった寅さんは、そこで知り合った美人教師に心奪われ、あけみはそっちのけとなってしまう。しばらく準レギュラーとして登場するあけみは、満男と一緒に寅さんを崇拝し、慕うのである。寅さんが恋愛の対象としてではなく弱い立場の少女たちに手を差し伸べたのは7作目『奮闘篇』からだ。榊原ルミ演じるマドンナの花子は知的障害を持った心優しい娘で、寅さんは彼女を守ってやりたいという感情が強すぎるあまり結婚を決意する。その後、26作『寅次郎かもめ歌』では、死んだ仲間の娘・伊藤蘭を引き取り、父親の目線で陰に日向に応援する姿が描かれた。この作品は、寅さんが恋するマドンナが登場しない珍しい構成となっている。若い者たちにしてみると自由奔放に自分の意のままに生きている寅さんは魅力的であり、憧れの的となる。後期の『男はつらいよ』を観ていると小さな事で悩んでいる自分が馬鹿らしく思えてくる。寅さんは現代人に対して、「もっと馬鹿になれ!」と警鐘を鳴らしているのかも知れない。


 テレビ版『男はつらいよ』の企画段階、山田洋次監督は渥美清に「どういうふうにやろうか?」と相談した時に、渥美が話してくれたのが、幼い時から親しんでいたテキ屋の事。様々な商品を言葉巧みに売る怪しげな面々の話しを聞く内に、山田監督の中に『男はつらいよ』の構想が沸いてきたという。渥美がまず話したのが“通しめんつ”の事。路地裏の家の2階でテキ屋が集まって、“通しめんつ”(おひかえなすって!…から始まる例の口上だ)の練習をしている。それを階下のオカミさんたちが評価する…そんな光景を日常の中で見て育った渥美が、テキ屋・車寅次郎を作り出したのだ。
 縁日になくてはならないのは屋台だが、寅さんは食べ物は売らない。あれは、黙々と焼いたり作っていなくてはならないため得意の啖呵売を聞かせる事が出来ないからだろうか?寅さんが得意とするものの中に「天に起動のある如く…」から始まる“四柱推命”の本がある。見物人の顔を見ていい加減な人相占いをまくし立てる。これは、渥美の記憶でロクマ(易者)と呼ばれる輩が源になっているに違いない。路上で色々話をした易者が「これ以上聞きたい人は…」と別の場所にある易断事務所へ連れて行くという寸法だ。つえを差し出して「このつえの先を見てください。どうぞ、これに着いてきてください」と言って歩いて行ってしまう。すると誰ともなく一人歩き出すと、それにつられて何人かがついて行くというのだ。こうした数ある逸話の中で、印象に残るのは石鹸売りの話だ。当時、石鹸が日本にはなく、洗面器にお湯を張って通行人が通る度に横にいる奥さんが石鹸で頭まで洗ってしまう。髪の毛の方が泡立ちがよく、まるで舶来ものの石鹸のように見えるわけである。そんな事を毎日やっているものだから、髪の毛が真っ赤になってしまった…というテキ屋が実在したのだから、さぞかし面白かったであろう。
 では、そもそもテキ屋という人々は、どういう人種の人たちなのだろうか?どうしてもヤクザと混同しがちだが、それとはちょっと違う。「祭礼(祭り)や市や縁日などが催される境内、参道や門前町」を庭場というが、その庭場において御利益品や縁起物を売る商売人の事をテキ屋(的屋)と呼んでいる。商売人といっても、祭礼時などは町鳶、町大工などの冠婚葬祭の互助活動と同じで、いわゆる寺社普請と呼ばれる相互扶助の一環でもあり、支払われるお金も代金ではなく祝儀不祝儀であるともいえる。同時に寺社などとの取り交わしによって、縁起物を売る時は神の依り代になるともいえる。テキ屋は「露天商及び行商人」の一種であり、伝統的な文化を地域と共有している存在である。しかし彼らは価格に見合った品質の商品を提供するというよりも、祭りの非日常(ハレ)を演出し、それを附加価値として商売にしている性格が強い。日本は古来から様々な職業において「組」と言う徒弟制度や雇用関係があり、的屋も噛み砕いて表現すれば、親分乾分(親分子分・親方子方・兄弟分・兄弟弟子)の関係を基盤とする企業や互助団体、その構成する人々でもある。「寺社などの神託」とは具体的には寺社普請といい、現在でも残っているが、特に明治以前の人々の暮らしは政(まつりごとが自治権として地域で認められていた)の中心として寺や神社があり、定期的な修繕や社会基盤としての拡張や一新を図るに当たり莫大な費用が必要であり、その一環として寄付を直接募るよりは、祭りを開催し的屋を招き地域住民に参加してもらい、非日常(ハレ)を演出する事で的屋から場所代として売り上げの一部を普請の資金とした。庶民も夜店や出店の非日常を楽しみ、日本の祭り文化が人生を豊かにし、技術を持った商売人としての的屋も生活がなりたったと言う背景がある。縁日が庶民の生活習慣に深く根ざすようになった事、各地域での経済の発展と市(定期市)の発生が、的屋を中心とする露天商の発展を促した。江戸時代には祭り文化とあいまってますます栄え、この勢いは昭和初期まで続き、第二次世界大戦前の東京都内では、年間600超える縁日が催されており、忌日をのぞき日に2・3ヶ所で縁日が行われていた。しかし戦争による疲弊から縁日は祭りとともに消えていった。祭りは住民参加型であれば、復活するものも多いが、縁日は職業としての的屋が担う部分が多くあり、廃業や転職などと時代錯誤的な世間の風潮とあいまって、その総数は減少の一途をたどった。
(Wikipediaより一部抜粋)
 寅さんが3作『フーテンの寅』で香山美子演じる父親の治療費のために妾になる決断をする若い芸者が出てくる。花沢徳衛演じる父親は、かつてテキ屋で、今では酒がたたりロクに話す事すら出来なくなっている。そんな同業者だった父親の代わりに、寅さんは、父の気持ちを代弁し、娘がいなくなったらきびすを返して仁義を切るシーンが実に哀愁漂うカッコ良かった。5作『望郷篇』でも昔大親分だった男が死の間際に棄てた息子に会いたいという願いを叶えるべく奔走するのだが、この大親分の末路は古い病院の大部屋でひっそりと息子に会うことが出来ずに息を引き取る。『男はつらいよ』で描かれるテキ屋たちは、いずれも、ヤクザな商売をしてきた故に目の前にあった幸せを逃してしまう設定となっている。確かに気質の商売とは言えないが、縁日を華やかに演出して、子供たちにワクワクするような夢を与えてくれた彼等を単なるヤクザ者と片付けるのは、ちょっと乱暴だと思う。

昭和44年(1969)
男はつらいよ
続男はつらいよ

昭和45年(1970)
男はつらいよ
 フーテンの寅
新・男はつらいよ
男はつらいよ 望郷篇

昭和46年(1971)
男はつらいよ 純情篇
男はつらいよ 奮闘篇
男はつらいよ
 寅次郎恋歌

昭和47年(1972)
男はつらいよ 柴又慕情
男はつらいよ
 寅次郎夢枕

昭和48年(1973)
男はつらいよ
 寅次郎忘れな草
男はつらいよ
 私の寅さん

昭和49年(1974)
男はつらいよ
 寅次郎恋やつれ
男はつらいよ
 寅次郎子守唄

昭和50年(1975)
男はつらいよ
 寅次郎相合い傘
男はつらいよ
 葛飾立志篇

昭和51年(1976)
男はつらいよ
 寅次郎夕焼け小焼け

男はつらいよ
 寅次郎純情詩集

昭和52年(1977)
男はつらいよ
 寅次郎と殿様
男はつらいよ
 寅次郎頑張れ!

昭和53年(1978)
男はつらいよ
 寅次郎わが道をゆく
男はつらいよ
 噂の寅次郎

昭和54年(1979)
男はつらいよ
 翔んでる寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎春の夢

昭和55年(1980)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花
男はつらいよ
 寅次郎かもめ歌

昭和56年(1981)
男はつらいよ
 浪花の恋の寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎紙風船

昭和57年(1982)
男はつらいよ
 寅次郎あじさいの恋
男はつらいよ
 花も嵐も寅次郎

昭和58年(1983)
男はつらいよ
 旅と女と寅次郎
男はつらいよ
 口笛を吹く寅次郎

昭和59年(1984)
男はつらいよ
 夜霧にむせぶ寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎真実一路

昭和60年(1985)
男はつらいよ
 寅次郎恋愛塾
男はつらいよ
 柴又より愛をこめて

昭和61年(1986)
男はつらいよ
 幸福の青い鳥

昭和62年(1987)
男はつらいよ 知床慕情
男はつらいよ
 寅次郎物語

昭和63年(1988)
男はつらいよ
 寅次郎サラダ記念日

平成1年(1989)
男はつらいよ
 寅次郎心の旅路
男はつらいよ
 ぼくの伯父さん

平成2年(1990)
男はつらいよ
 寅次郎の休日

平成3年(1991)
男はつらいよ
 寅次郎の告白

平成4年(1992)
男はつらいよ
 寅次郎の青春

平成5年(1993)
男はつらいよ
 寅次郎の縁談

平成6年(1994)
男はつらいよ
 拝啓 車寅次郎様

平成7年(1995)
男はつらいよ
 寅次郎紅の花

平成9年(1997)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇




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