めがね
何が自由か、知っている。
2007年 カラー ビスタサイズ 106min めがね商会
エグゼクティブプロデューサー 奥田誠治、木幡久美 監督、脚本 荻上直子 撮影 谷峰登
照明 武藤要一 美術 富田麻友美 編集 普嶋信一 音楽 金子隆博 録音 林大輔 主題歌 大貫妙子
出演 小林聡美、もたいまさこ、光石研、市川実日子、加瀬亮、薬師丸ひろ子、橘ユキコ、中武吉
荒井春代、吉永賢、里見真利奈
2006年に公開され、熱い反響を呼んだ『かもめ食堂』。そのキャストとスタッフがふたたび集い、今度は南の海辺を舞台にあらたな物語を生み出した。人生の一瞬にふと立ち止まった女性が海辺の町を訪れ、のどかな時間とそこで出会う人々との奇妙なふれあいを通して、日常のなかで見失いかけていた魂の自由(のようなもの)を取り戻していく姿を描いていく。主人公・タエコを小林聡美が演じ、前作『かもめ食堂』で見せた清潔なたたずまいをそのままに、等身大の女性をきめ細やかに造形。彼女を受け止める謎の女性・サクラを『かもめ食堂』に引き続き、もたいまさこが不適かつおおらかな存在感で登場する。そして、市川実日子、加瀬亮、光石研という人気・実力を兼ね備えたキャストが脇を固めている。監督・脚本は、前作同様、荻上直子。抑制の効いた描写の中に豊かなドラマ性を息づかせる作風は本作でも健在。美しい海を背景にした心地よい暮しの風景、おいしい食卓、心に響く音楽といった涼やかなディテールにこだわり、美術・編み物・料理・体操に各々のプロフェッショナルが参加して本物が持つ良さをスクリーンに映し出している。
※物語の結末にふれている部分がございますので予めご了承下さい。
春まだ浅い頃、南の海辺の小さな町にある飛行場―プロペラ機のタラップを降りたタエコ(小林聡美)は、大きなトランクを引きずりながら小さな宿・ハマダにたどり着く。出迎えたのは、宿の主人ユージ(光石研)。彼は自ら書いた地図で迷わずやってきたタエコに、この場所にいる才能を見いだす。疲れ果てて眠りについたタエコは、翌朝目をさますと足元に微笑みをたたえためがねの女性サクラ(もたいまさこ)が座っており、驚くタエコを尻目に「朝です」と告げる。毎朝、海岸で行われるメルシー体操やサクラが経営するかき氷しか出さない海の家など、不思議な人種ばかりに戸惑うタエコ。ある日「観光したい」と告げると「ここには観光する場所なんてありませんよ。皆、たそがれにやって来るのですから」と不審げに問い返す。更に、毎食の度に従業員も客も同じテーブルで食事をとる事に耐え切れなくなったタエコは、近所の高校教師ハルナ(市川実日子)の車で別の宿に送ってもらうも、その場所にも違和感を覚え飛び出してしまう。途方に暮れるタエコを通りがかったサクラが自転車で宿ハマダまで送ってくれる。いつしかハマダでの生活に慣れ、たそがれながら日々過ごすタエコの前に、彼女を先生と呼ぶ青年ヨモギ(加瀬亮)が現れる。ヨモギもまた皆のペースに巻き込まれ、ゆったりとした時間を過ごすようになる。季節は春から夏へと変わり始め、梅雨の到来とともに皆もまた自分たち本来の場所へと戻っていく。
荻上直子監督の作品に出て来る風景―街の通りや広場は、生活感がなく閑散としており、どこか無機質な印象を覚える。それは、『バーバー吉野』の山間部にある田園風景が広がる田舎町や『かもめ食堂』のフィンランドの港町も同様で、風景自体に人間の営みというものが感じられないのである。本作も然り…小林聡美演じる主人公タエコが降り立つ海辺の町も最初は離れ小島なのか?と思えるくらいに人の往来が無く、小さな空港も不思議の国の入口みたいな雰囲気すらある。ところが、そんな無機質な風景(自然溢れる田園すら無機質な印象が強い)が広がるにも関わらず荻上監督の作品程、人間の温かさを感じさせる映画は無い。本作の舞台となる静寂に満ちた海辺の町…かろうじて南国であることは予想出来る程度。観客もタエコと同様、予備知識なくやって来た訪問者であるかの如く映画の中に入り込んでしまう。そう、観客がもう一人の主人公となって、映画の中に身を委ねるためには、これくらい閑散とした風景がちょうど良い。おかげで観客が自分の身を置く余裕が生まれるのだ。主な登場人物はたったの5人…タエコが宿泊する宿の主人ユージ、地元の女教師ハルナ、毎年春先にやって来る常連客サクラ(もたいまさこのメルシー体操は最高!)、そしてタエコを追って来る青年ヨモギ…彼らの過去も素性も掘り下げる事無く物語は進行して行く。荻上監督は相変わらず小道具の使い方が上手く、5人の性格や感情の移ろいが、スプーンやスーツケース、かき氷器によって明確に浮き出ている。
観光する所など何も無い南の海辺…そこに集まる人々は“たそがれ”るためにやって来る。“たそがれ”ってよく耳にする言葉なのに、その方法を知らない我々現代人。荻上監督は、その“たそがれ”をテーマに一服の清涼剤のような映画を完成させた。砂浜にあるサクラがかき氷しか出さない海の家(実際はバラックと言った方が良い?)を中心に登場人物を配置する。この構図が実に良く出来ており、ただかき氷を食べているだけなのに登場人物の人間味が如実に表れているのだから不思議だ。結局、彼らがどのような人生を送って来たのか…最後まで語られる事は無い。しかし、このシーンがあるからこそ、セリフによる登場人物たちの説明は不要…と、言うより無粋なわけで、これほど無言の優しさに満ちあふれたシーンは観た事がない。荻上監督がテーマとして掲げる“たそがれ”を一番表しているのも、この海の家のシーンだ。あっ、なるほど!たそがれている人間ってこんなに幸せな表情をしていたんだ!と、気付かされる。宿(ハマダ)の食堂で作られるささやかな料理の数々を囲みながら繰り広げられる何気ない会話を聞いているだけで、スクリーンを観ながらいつの間にか“たそがれ”ている自分がいる事にハッとするであろう。本作は豪華ではないけれど、素材の美味しさを活かした家庭料理のような映画だ。
「才能ありますよ…ここにいる才能」光石研が演じる宿の主人ユージがタエコに言うセリフ。見知らぬ土地に行った時に言われてみたい、旅人にとって最高の賛辞だ。