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「何かひとつ、自分の主張をカタチとして表したかった」という想いから、70歳を迎えて初めて映画を作ろうと決意した図師三千男監督。24歳でCM界の最大手“日本天然色映画(株)”に入社して以来、数多くのCMを手掛けて来た図師監督は、にこやかに映画製作への心境を語った。本来CMは、映画館で流されている宣伝広告映像であった。それがテレビの普及に伴って番組にスポンサーが付き始め、テレビCMの方が主流になってきたわけである。図師氏が入社した昭和30年代は、まさに高度経済成長期の真っ只中で、各企業がテレビCMをこぞって流していた時代。「会社も儲かっていたのでしょうね(笑)新人の私に、いきなりCM制作を任せるくらいですから…私にとっては幸運でしたよ」と、当時を振り返る。「その当時は、モノが元気だった時代、モノが必要とされていた時代…人間の暮らしをモノが良くして行けるんだと、まだ信じられていた時代でしたから広告が幸福だったんですよ」 それでは、CMと映画では、作り手としてどのような違いがあるのだろうか…。その点について、図師監督は次のように答えてくれた。「映画は撮影して行きながら修正が出来たのがありがたかった」図師監督は映画製作を“ピサの斜塔”と準える。つまり、1階からレンガを積み上げて行きながら傾斜に合わせて方向バランスを微調整した“ピサの斜塔”のように、映画を撮りながら登場人物の性格から成る行動を完成させることが出来た、というわけだ。「最初に作った脚本通りに撮影を進めて行くと、中盤で“あれ?主人公は、こんな行動を取らないのではないだろうか…”と、思い軌道修正した箇所がいくつかありました」と撮影時の様子を振り返る。CM製作の現場では、一気に短期間で全てを作り上げなくてはならないため、企画の段階(コンセプト、企画書作成)から、次のステップとなるコピーワード、絵コンテ作りを経て、演出…と、全てをこなされて来たという図師監督は「映画は、CMと異なり長いスパンで取り組むため、初めて映画を作る身にとっては非常にありがたかったですよ」と語ってくれた。 実姉である松浦百合子原作の『三十九枚の年賀状』を処女作品として選んだ図師監督は、終戦前夜に出会った兵士と少女の仄かな恋愛ドラマを生まれ故郷の宮崎県にてオールロケを敢行。地元の人々の協力を得て、予想以上の素晴らしい作品になったと、出来ばえに満足されている。また、初の映画製作を振り返って「映画を撮影しながら監督も主人公と一緒に育っていくのを実感した」と図師監督は語る。何日も…いや、企画段階から数えると何ヵ月も登場人物たちと付き合って来ているわけだから、撮影本番を迎えて、脚本の中の登場人物たちが俳優によって具現化されて、進行して行くうちに「“監督”も“俳優”も“俳優が演じる登場人物”も各々育っていくわけです。だからお互いに、作り上げたという満足感を共有出来るのでしょうね」撮影中に、俳優が想定していない行動を取った時の方が、むしろ良かったりする事も何度かあったという。「やはり、優れた役者さんは凄いですよ。シナリオから自分の演じるキャラクターを自分の肉体が演じる時に、自然に出た仕草やしゃべり方やニュアンスが、シナリオからそれて、もっと全うな方向へ向かう事って絶対にあります。大事なのは監督は、それを見逃さない事ですよね」映画は複数の人の手による集合芸術だ…という言葉がある。正に図師監督の言葉は、それを見事に言い表しているのではないだろうか。シナリオが俳優の手に渡った瞬間から、その中の人物たちが俳優と融合して、監督が思っても見なかった行動をおこす…これこそが役に命を吹き込むという事なのかも知れない。 1936年 宮崎県出身 伊庭長之助氏の日本天然色映画株式会社(ニッテン)に入社。杉山登志氏、葛上周次氏に師事し、CMディレクターとして日産自動車、シャープ、花王、日本航空、雪印、味の素、コダックフィルム、ハウス食品、森永製菓など約40社のCMのプランニング・演出を担当した。また、アルフレッド・ヒッチコック氏にはスクリーンで私事されている。後に独立して株式会社CF-KIDを設立。CMの他にも広告映画、サークラマ、3D映像等の博覧会映像も手掛けている。そして70歳を迎えて初めて長編劇映画に挑戦し、次回作として『三十九枚の年賀状』の舞台版や漫画化、また、後期高齢者を主人公としたコミカルな探偵ドラマも構想中である。初監督作品『三十九枚の年賀状』の原作者・松浦百合子さんは実姉である。 |
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