TATSUMI
劇画の父、辰巳ヨシヒロの半生をエリック・クー監督が長編アニメーション化。
2011年 カラー ビスタサイズ 96min シンガポール映画
監督、プロデューサー エリック・クー 原作 辰巳ヨシヒロ 音楽 クリストファー・クー
アニメーションディレクター フィル・ミッチェル アートディレクター ウィティ・サブトゥワ
出演(声) 別所哲也、辰巳ヨシヒロ
戦後占領下の日本。若い辰巳の漫画への情熱はついに彼の貧しい家族を支える手段にまでなる。10代ですでに作品が出版されていた辰巳だが、崇拝していた手塚治虫と実際に出会ったことから、さらに創作意欲を触発される。順調な成功の裏で、辰巳は日本の漫画が、なぜ可愛くおもしろおかしいストーリーと描写で子供におもねるのかに疑問を感じ始める。1957年、辰巳は「劇画」(ドラマチックな画)という新しい言葉を生み出し、大人向けの別ジャンルを広めることで従来の漫画を再定義する。辰巳の作品は人生のよりシリアスな部分を捉え始める…。
自分の記憶の中にある昭和という時代は『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいな誰もが明るく楽しそうだった…という印象よりも、盛り場の路地裏にある暗くてジメジメした雰囲気や畳や古本のカビ臭さがリアルに焼き付いている。正に辰巳ヨシヒロが描く劇画のイメージのままだ。多分、大人は日本が敗戦から復興していく光景に感慨深いものを感じただろうが本作の原作『劇画漂流』の主人公・ヒロシ少年(勿論、辰巳ヨシヒロ本人)と同じくらいの年頃だった子供心にはイイ事より怖かった思い出の方が鮮烈に覚えているものだ。何せ原作では冒頭、ヒロシはお父さんに怒鳴られるところから始まるのだから。シンガポールの映像作家エリック・クー監督が実写ではなくアニメーションという技法を選んだ事で、当時の暗闇やいかつい大人が怖かった時代の記憶が蘇る。それは、世間が高度経済成長期で沸いている一方で、お祭りの時には軍服姿で片腕や片足を失った傷痍軍人が頭を下げ、その前に置いていた空き缶…そんなアンバランスな光景が混在していた時代だ。劇中でも紹介されていたが時の首相が「もはや戦後ではない」と言った言葉もそのような光景の前には虚しく響く。
『劇画漂流』をベースとして5つの短編を挿入する構成にした事で、辰巳ヨシヒロの作品に時代が与えた影響が明確化された本作。(『劇画漂流』の主人公をヒロシから本名のヨシヒロに変えている事からもエリック監督の意図するところは明確だ)原爆投下直後の広島に残された母親の肩を叩く孝行息子の影から浮き彫りにされた人間の業を描いた『地獄』に始まり、米兵相手に身体を売っていた女性が自分の父親と最後に関係を持つ事で身内という関係を切り捨てて独り生きていく『グッドバイ』まで戦後日本の裏側が克明に描かれる一大叙事詩となっていた。こうして、本筋に上手く短編を絡めているおかけで辰巳ヨシヒロの作風に時代が与えた影響が分かりやすく整理されている。ラストで主人公が生み出した登場人物たちが現実の世界に生きる主人公の前に現れるシーンに感慨深いものを感じる。昔出会った怪しげで怖かった大人たちは今、元気にしているだろうか…?なんて思ったりする。
本流のエピソードをカラー、短編をモノトーンで表現したクオリティの高さ…CGクリエーターのフィル・ミッチェルによる劇画特有の荒々しいタッチを効果的に再現する手法はどれも目を見張るものばかり。貸本時代の本に漂う雰囲気や劇画特有のタッチを表現するため、何度も方針協議を繰り返したというが、完成した映像から埃っぽい噎せ返るような匂いが漂ってきそうに感じるのが見事だ。また、7役を演じる別所哲也の絶望感と虚無感に溢れた声は辰巳ワールドの住人たちに命を吹き込む事に成功している。
辰巳ヨシヒロの世界を日本人ではなくシンガポールの監督が作った事によって客観性のある素直な辰巳ワールドが作り上げられた。