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銀座の街を歩けるようになれば一人前…なんて昔の人はテレビに銀座が映るたびよく口にしていた。それだけ戦前から銀座という街は軽々しく足を踏み入れてはならない特別なものだった。なのに、地方から出て来たばかりの浮かれていた若者たちは、そんな先人の言葉を忘れて無謀にも不釣り合いな格好で訪れるのであった。斯く言う私も、あまりにも煌びやかな街の迫力に圧倒され、三々五々どこにも寄らず丸ノ内線に逃げ込んだ記憶が今でも鮮明に残っている。それでも、日本屈指の映画街があったおかげで、貧乏な映画ファンでも銀座に行く口実だけはあった。まだギリギリ残っていた『日本劇場』や、憧れのシネラマ劇場『テアトル東京』…お金が無くたって、あの伝説の名画座『並木座』と『銀座シネパトス』で充分に楽しめた。銀座の映画館に通い続けて…そう言えば、銀座の裏通りをちゃんと歩いた事がなかったと気づいたのは社会人になって、それなりのお給料を貰えるようになってからだ。 ここに一冊の本がある。『銀座・資本論』。これは銀座の老舗テーラーを受け継ぐ三代目の著者が、長年、銀座に店を構える寿司屋や和菓子屋の先輩職人たちに行ったインタビューをまとめたものだ。「2年前に僕の友人から、“本を出したんだ”って連絡があって、仲間で出版記念パーティをやったんです。その時、軽い気持ちで購入した本を持ち帰って読んでみたら…それがすごく面白かった。翌日すぐに、これを映画にしたいって、友人に電話しました」と語ってくれたのは映像ディレクターの鈴木勉氏。北京オリンピック前の再開発によって消えてしまう北京の下町を描いた『胡同の一日』で監督を務め、2008年のショートショート フィルムフェスティバル &アジアで、日本人初のグランプリを受賞している。かねてから日本の良さを何らかの形で伝えたいと考えていた矢先、皮肉にも2020年の東京オリンピックで、鈴木監督の生まれ育った街も再開発で完全に無くなってしまう事が決定する。「僕の生まれた街は、神谷町周辺なのですが、元々、六本木ヒルズよりも先に再開発する計画だったらしいのです。結局、バブル崩壊で立ち消えていた話しが、今回のオリンピックで復活したんですね」当たり前のようにあった街が消える…その胸中はかなり複雑だ。「例えば、自分の生家がマンションになる程度だったら、何年後かに訪れても、この角に家があったよな…って、懐かしめるでしょうけど、大規模開発だから道路も無くなり谷も埋め立てて、街ごと別なものになってしまうんですからね」消えたものは二度と戻らないから…それを映像に残したいと思っていた鈴木監督が出会ったのが、友人の書いた『銀座・資本論』だった。 「その本を読み進めて行くと…あれ?銀座ってそんなに気取った街じゃなくて、すごく下町っぽいな…って思ったんです。そこでお店をやっている人たちは、お互いに職人としてリスペクトしているから、寿司屋の大将に、たまには天ぷらも食べたいな…って言うと、きさくにオススメの天ぷら屋を教えてくれるなんて話しも出ている。こういう人たちを映画にしたいと思ったんです」銀座のメインは華やかな表通りの店でも、実は裏通りにある100年、200年続いている小さな老舗のご主人たちが、銀座を支えているのではないか?というところに鈴木監督は惹かれた。「僕は港区の小学校に通っていて、クラスの半分は地元でお店をやっていました。おもちゃ屋だったり八百屋がいたり…周りにそういう大人たちがいっぱいいて、そんな背中を見て育ってきたので、銀座の店主たちの姿が懐かしくもあるんです」だからといってノスタルジックなものを守っているわけではなく、銀座は常に最先端のものを追求する街でもあるのだ。「だから常に最高のものを求める人々が集まって、それに答えているからこそ100年や400年も続いている。決して昔のものに固執しているのではなく、常に最先端のお客様のリクエストに応え続けて進化しているから続けているんでしょうね。例えば、今回取材したお寿司屋さんは台湾やニューヨークまで寿司を握りに行っているし、仕立て屋さんは中東やアメリカまで仮縫いに行ったりしている。つまり本当に良いものを求める人たちは、銀座のその職人をナンバーワンと認めて、わざわざ自国まで呼んでいるんです」 鈴木監督は、銀座という街の表面ではなく、そこに根ざした文化とか、街そのものを支えてきた人たちにフォーカスをあてたドキュメンタリー映画を撮りたいと考えた。そして、その映画のタイトルは『銀座裏通りの職人たち』英語名は、God's IN ZA details(神は細部に宿る)。物作りをしている時に、細かいところを疎かにすると良いものが出来ない…という意味だ。一口に銀座といっても、今回取り上げるのは、銀座八丁と呼ばれている一丁目から八丁目まで。晴海通りを中心として昔の外堀と昭和通りに挟まれた新橋から京橋までの横長のエリアだ。「現在、登場予定の職人さんは、寿司屋・仕立て屋・和菓子屋・バーテンダーという4名の方を考えています。中でも和菓子屋さんは創業400年以上…徳川幕府が開幕してすぐのお店なので、今でも400年前のレシピで作ったりしているそうです。正に歴史の中にいる方々ですよね」 ケン・ローチ監督の映画が好きという鈴木監督。「映画で人を描く事は街を描く事でもあるし…街を描くという事は人を描いている。そこには絶対に切っても切れない関係があるような気がします。その場所でしか撮れない映画じゃないと本当の良さが伝わらない。ケン・ローチ監督の描く労働者の疲れた雰囲気は、21世紀のイギリス郊外にあるあの街でしか撮れないからこそ素敵な映画になるんです。だからこそ今この時に撮らないと意味が無い。銀座を通して、日本全体の素晴らしさ、日本人の素晴らしさ、日本の職人の素晴らしさが伝えられたら…と思いますね」鈴木監督は、今回の作品を銀座の広報映画にするつもりはないという。あくまでもそこに生きている人たちが、この映画の主役なのだ。「実は、既に銀座は前のオリンピックで変わっているんです。そして今、お店では世代交代を考える時にさしかかっているそうです。今の職人さんたちを描く事で、銀座がこれからどう変わるのか?が見えてくると期待しています。もしかすると、一番良い時期に銀座を撮れるのかも知れませんね」 実は、神谷町で育った鈴木監督にとって、銀座は近くて遠い場所(神谷町でさえ!?)だったという。「確かに地理的には近いのですが…銀座というのはハレの場で、六本木に買い物に行くのとわけが違うんです。銀座は一張羅を着て親に連れられて行くもので、普段着や汚れた靴で出ようとしたら、そんな汚い格好で行っちゃダメよ!って怒られたりしてね(笑)大人になっても、僕らが六本木だの青山だのに流れているのに対して、銀座って僕らの先輩たちが、昼は買い物をして夜はバーで飲んだりする街であって、距離感というのはすごく感じていましたね」そんな若き日の鈴木監督が初めて洋画を観たのが、やはり銀座の中心にあった『日本劇場』だった。それまでも両親に連れられて『丸の内東映』で東映まんが祭りを観たりして、子供の頃から銀座は映画の街でもあった。「小学生の頃から友だちと“タワーリング・インフェルノ”を観に来たりして…ビデオなんて無い時代だから何回も観てね。中学生の時に“スターウォーズ”が公開され、まさに大きな映画館で映画を楽しめた時代です。『並木座』は映画を教わった映画館でしたね。黒澤明や溝口健二特集とかを観ている映画好きな大人たちに混じって、中学生の僕がチョコンと座っている。映画も素晴らしいんだけど、周りの大人たちの会話とかが、何かサロンぽくて魅力的だったのを記憶しています」 今月27日までモーションギャラリーというクラウドファンディングのサイトで制作費の募集も行っている。完成は年内を目処に来年の公開を目指し、今月から撮影が始まった。勿論、海外の映画祭への出品やネット配信も視野に入れている。とにかく世界の人々に伝えたいと繰り返す鈴木監督。「銀座でロケをした映画が意外と少なくため、映画という器に封じ込めた作品をちゃんと撮りたいなって思います」と意欲を見せる。半年かけて撮影を敢行する中で、銀座で働く人々の言葉や考えをどうやって映像で見せて行くか…が一番難しいと語る。「言葉で説明すると分かり易いのですが、それでは映画の意味が無い。とにかく半年かけて少しずつ…すごいプレッシャーを感じながら楽しんで作ります」 取材:平成29年4月13日(木)数寄屋橋交差点にて |
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