滋賀県彦根市の城下町で生まれた団鬼六は小学生までの幼少期を琵琶湖の畔にある小さな街で過ごした。外に愛人をこしらえては、相場で失敗すると家出をしてしまう父親が経営する映画館(この映画館も母親が駆け落ちした男のものであって破産した父が転がり込んだもの…という複雑な環境)で映画に触れながら大阪に移り住むまで過ごす。破産と家出を繰り返す…そんな波瀾万丈な父親をモデルにして書いた小説“親子丼”が文藝春秋のオール新人杯に入選。それが東西芸術社という三流出版社の目に留まり、上京したのが昭和32年、団鬼六が26歳の頃である。いよいよ単行本化される時に印象的なエピソードが残されている。オール新人杯で高評価をしてくれた先生方に序文の言葉を貰うために文藝春秋本社に直談判に訪れたのだ。地下にある文春クラブで担当者を待つ間に、なんと将棋を指している詩人・野上彰と遭遇。ひょんな事から対局する事になったのだ。将棋を得意として数々の賭将棋で勝ち続けてきた団氏は3段の野上を立て続けに負かしてしまい、それがキッカケで将棋好きの文壇関係者と親しくなり、見事に序文の言葉を貰ったところか、文春クラブで出版記念パーティーまで開いてもらったのだ。全てが順風満帆かに思えたが、新橋にスナックをオープンしたところ流行る事なく多額の借金と共に潰してしまう。そんな時に1枚200円という破格の原稿料でSM雑誌のパイオニア“暉談クラブ”から短期連載『花と蛇』を発表。これが予想外の反響を呼び、8年ものロングラン連載になろうとは誰が予測し得たであろうか。当初、花巻京太郎という名前から第4回目の連載より団鬼六に改名…ここからSM小説家・団鬼六の名は瞬く間に、この業界を席巻する。
 団氏と谷ナオミとの出逢いは、ピンク映画の脚本を書き始めていた頃。当時、アテレコ用の台本を書くことにうんざりしていた団氏は、仕事の合間を見て3日で書き上げたところ“六邦映画”で契約がまとまり5万円の脚本料(アテレコ会社の月給は7万円だった)を手にして、ピンク映画の景気の良さに驚いたと当時を振り返っている(実は団氏をピンク映画界に誘ったのは、懇意にしていたたこ八郎だった)。初めてピンク映画の撮影現場を訪れた団氏が、あまりの現場の楽しげな雰囲気に、太宰治の小説に出てくる一節―明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ―を思い出したと語っている。(生きかた下手:文藝春秋刊より参照)SM小説を書きながらピンク映画の脚本家として本格的に活動しようか?と迷っていた頃、そのピンク映画のプロダクション(通常エロダクション)の社長から「ピンク女優の新人を見つけたからちょっと逢ってくれないか」と依頼され渋谷の喫茶店で初めて顔を合わせた。最初の印象を“田舎の匂いが抜け切れていない所がある”と、博多弁で話す三つ編みの18歳の少女に抱いたという。少女っぽいあどけなさが顔に滲み出ていながらも、セーターの上からも分る肉付きの良いプロポーションに、団氏は眼を奪われた。しばらくして新設プロダクション・山田プロの脚本家として、ピンク映画に飛び込んだ団氏は、記念すべき第一回作品を自身の代表作『縄と蛇』とした。本当は、この作品の主役に谷ナオミを起用したかったらしいのだが、専属プロダクションとの関係(当時は他社の作品にお抱えの女優を貸し出すのは難しかったのだ)で実現しなかった。数年後、日活ロマンポルノで初めて実現するのだが…。仕方なく、新宿の安キャバレーで口説き落としたホステスを登板させたというエピソードが残っている。そんな素人女優で作った映画が思いの外好評で、配給会社より「あの手の映画をもた作って欲しい」という注文がきた。多分、当時としては珍しい緊縛シーンの多い映画であったからであろう…と、団氏は分析する。一度、映画に対する好評価を得ると各プロダクションも協力的になり、山田プロの3作目には谷ナオミを主役として起用する事が実現。「この際、ナオミを思い切ってふん縛ってやろうと思った」と後に語る程、意欲的にSM作品を次々と書き上げ、ここに団鬼六&谷ナオミのSMジャンルが誕生したのである。
 谷ナオミを専属として再契約してからというものピンク映画界のトップクラスにまで登りつめた山田プロは月3本の作品を次々と発表。谷ナオミ以外にも専属の女優を着実に増やしていった。ちょうど会社が軌道に乗り始めた頃、団氏は一度ピンク映画業界から遠ざかり谷ナオミとも疎遠になってしまう。しばらく真鶴の別荘を購入して休養してから、他社の作品を書き始め、遂に昭和44年“鬼プロ”を設立して自費でピンク映画を製作、当時の最大手であるミリオン映画で配給が決定した。同時に芳賀書店からピンク映画の製作過程を撮影した写真集の出版を持ちかけたところ、これが大当たり。全てが順風満帆に進んでいたのだが、時代の流れと共に、それまでアングラで特殊な世界であったSMも様々な種類の雑誌が巷に溢れ出し、昭和46年に発刊された篠山紀信撮影による“緊縛大全”を最後に緊縛写真集の仕事を打ち切る事にした。入れ替わりに、SMを楽しんで書く作家を集め“SMキング”なるマニア雑誌を発刊。昭和49年に廃刊すると同時に“鬼プロ”の看板を下ろした。この年は、独立系のエロダクションが製作するピンク映画を配給する会社が潰れだし、常設館も閉館が続き、殆どのエロダクションは解散するか、メジャー大手“東映”“日活ロマンポルノ”が製作するピンク映画に吸収されていった年でもある。団鬼六&谷ナオミSM路線もまた“日活ロマンポルノ”に移り人気プログラムとなったのは、ご存知の通り。現在ではアブノーマルな世界とされていたSMに対する認識も大きく変わり、角川文庫から『花と蛇』が全巻発売されるようになった。団鬼六は自伝の最後に、こう結んでいる。「これも時勢といったものだろうけれど、長い道のりを歩き、SMもよくもここまで到達したものだと思う。」
(蛇のみちは:白夜書房刊より参照)


団 鬼六(だん おにろく)ONIROKU DAN 本名:黒岩幸彦
1931年4月16日(戸籍上は9月1日) 滋賀県彦根市に生まれる。
 初期のペンネームに花巻京太郎。なお、本人の弁によると筆名の読みは“おにろく”でも“きろく”でもどちらでも構わないとのこと。
 関西学院中学部・関西学院高等部を経て、関西学院大学法学部卒業。1957年、文藝春秋のオール讀物新人杯に「親子丼」で入選し、執筆活動に入る。自身の先物相場や株取引の経験を元に経済小説・相場小説を執筆し、このうち「大穴」は、1960年に松竹で杉浦直樹主演で映画化されている。しかし、1961年頃に変名で『綺譚クラブ』に投稿した「花と蛇」が評判となり、官能小説の第一人者となる。ピンク映画の脚本の執筆を依頼されたのをきっかけに自身でプロダクション「鬼プロ」を立ち上げ、ピンク映画を製作するとともに篠山紀信と共にSM写真集の出版等も手がけた。1989年断筆宣言をするも、1995年に『真剣師・小池重明』で作家として復活。現在もエンターテイメント作品の発表を続けている。執筆するSM小説のイメージから「ハードポルノ作家」と呼ばれることが少なくないが、本人は一貫して「自分はソフトです。ハードじゃない」と主張している。
 将棋はアマ六段の腕前。1989年に雑誌『将棋ジャーナル』の発行を引き継ぐものの赤字が止まらず、1994年に同誌が廃刊となる。作家として復活したのは雑誌の発行により抱えた借金を返済することが原因であった。ジャズシンガーで女優の黒岩三代子は実妹。
(Wikipediaより一部抜粋)



【参考文献】
生きかた下手

297頁 19× 13.4cm 文藝春秋
団 鬼六【著】


【参考文献】
蛇のみちは―団鬼六自伝

307頁 19× 13.4cm 白夜書房
団 鬼六【著】

【主な原作】
昭和42年(1967)
縄と乳房

昭和47年(1972)
緋ぢりめん博徒

昭和49年(1974)
花と蛇

昭和49年(1975)
お柳情炎 縛り肌
新妻地獄
夕顔夫人

昭和52年(1977)
檻の中の妖精
幻想夫人絵図
貴婦人縛り壺

昭和53年(1978)
黒薔薇夫人
縄地獄
団鬼六 薔薇の肉体
団鬼六 縄化粧

昭和54年(1979)
団鬼六 縄と肌
団鬼六 花嫁人形

昭和55年(1980)
団鬼六 少女縛り絵図
団鬼六 白衣縄地獄
団鬼六 縄炎夫人
団鬼六 薔薇地獄

昭和56年(1981)
団鬼六 女秘書縄調教
団鬼六 女教師縄地獄
団鬼六 女美容師縄飼育
団鬼六 OL縄地獄

昭和57年(1982)
団鬼六 蒼いおんな
団鬼六 少女木馬責め

昭和58年(1983)
団鬼六 蛇の穴
団鬼六 美女縄地獄
団鬼六 美女縄化粧

昭和59年(1984)
団鬼六 修道女縄地獄
団鬼六 縄責め

昭和60年(1985)
団鬼六 緊縛卍責め
花と蛇 地獄篇
団鬼六 美教師地獄責め

昭和61年(1986)
花と蛇 飼育篇
団鬼六 蛇と鞭
花と蛇 白衣縄奴隷

昭和62年(1987)
団鬼六 生贄姉妹
夢どれい
団鬼六 人妻なぶり
花と蛇 究極縄調教

昭和63年(1988)
団鬼六 妖艶能面地獄

平成12年(2000)
不貞の季節

平成14年(2002)
およう
紅姉妹 前後編

平成16年(2004)
花と蛇




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