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開店休業状態のパン屋に、突然現れた一人の外国人女性。表のワゴンにあったセールのパンをレジに叩きつけてひと言…“パンが泣いている”。環境未来都市として様々な社会問題に対し、多角的に取り組み、新しい街づくりの礎を築こうとしている横浜の魅力を発信する目的で制作されたショートフィルム『一粒の麦』の冒頭シーンだ。主人公のシャーロット・ケイト・フォックスが演じるのは、フランスで4代続くパン屋の5代目店主。片や柄本明扮するのは、今まさに店を畳もうとしていた横浜のパン職人。世代の異なる二人を結びつけるのは、先代が付けていた日本で最初のパンのレシピだ。 本作で脚本も手掛けた鈴木勉監督は、敢えて横浜を街として俯瞰で捉える事をせず、その街に暮らす人々の姿に焦点を当て、極めてパーソナルな視点で街の文化と歴史を描き出そうとしている。「横浜という街に住んでいる人…つまり、その街にある一軒の小さな店と、そこにいる人物が魅力的に見えれば、それで良いんだろうなと思ったんです。最終的に観客に、横浜って素敵な場所だよねとか、住んでいる人って素敵だよね…って事がどうやったら伝わるか?そこだけを考えて作りました」街の広報ビデオにだけはしたくなかったという鈴木監督は、横浜でしか描けない題材にこだわった。「仙台とかで撮っても成立するような内容じゃ意味が無い。だから、広く薄くするよりも、ひとつを濃くした方が魅力的に見える…と思ったんです」そうやって題材を探して行くうちに、横浜がパン発祥の地で、かつては小麦畑もあったという事実に辿り着く。 中学から大学まで約10年間を横浜で過ごした鈴木監督は、よく横浜の人に言われた事を今も鮮明に覚えているという。「江戸っ子って閉鎖的だよねって言うんです。例えば、三代続かないと江戸っ子じゃねぇ…とか、よそ者に対して田舎もんだろう…とかね。でも横浜は、住んだその日からハマッコみたいな(笑)そういう意味ではすごくオープンな土地柄なんですよね。劇的な変化は無いんだけど、色んな文化を取り入れて、そこから新しいものを生み出してきた街だから魅力的なんでしょうね」それは、文明開化の時代に遡り、外国に開かれた港町であるという長い歴史からくるものかも知れない。そして…その中から生まれた食文化のひとつがパンだった。 主人公は横浜の外(異国)から来たという設定。片やもう一人の主人公はずっとその場所で同じ事を繰り返してきた。「老舗を二代三代…と継いで行くうちに、どうしても、本当はもっと美味しいパンがあるのではないか?という疑問と、いや自分はこの味を守るんだ…という迷いや葛藤のようなものから、頑に閉ざして陥ってしまったのが、柄本さん演じるパン職人でした。そこで何かのキッカケで…つまりフランスから来た絵里子なんですけど、別のものに出会う事で心を開くと、そこからまた新しいものが生まれる事だってあると思うんです。冒頭で、横浜が異国の文化を取り入れて新しいものを生み出す街とナレーションでも語っていますが、これがまさに本作のテーマなんです。柄本さんはいつの間にか鎖国していたんですね。それが心を開いた事によって、俺も新しいパンを作るぞ!とまた動き始める。僕は、そういうのが表現出来たら良いなと思っていました」 この映画の結末は、新しい何かを見つけたのではなく、本質は自分の足下にあった…という事になっている。「物語の終わり方って色んな形があります。同じ場所に留まっていた人間が、外から来た人間によって変化して、その外から来た人間も同じように変わる。ここから何か生まれて来るのかな?という入口のところで、映画は終わっているんですよね。だからここから先は想像に任せるしかないんですけど、最後の笑顔で、きっと上手く行くんだろうなって思えるような終わり方にしたかったんです」 実は、このラストの描き方を観て、鈴木監督が2008年のショートショート フィルム フェスティバルでグランプリを受賞した『胡同の一日』を思い出していた。オリンピックを間近に控えた北京の下町を舞台に、間もなく再開発によって姿を消して行くであろう古き良き街に暮らす人々の日常を描いた詩情豊かな人間ドラマである。「確かに、今回は横浜ですけど二つの作品には共通している部分があって、現在の“その時”と“その場所”を切り取っていかないと意味が無いと思いました。10年後の横浜に暮らす人々が本作を観てどのような印象を受けるのか…を想像しながらロケハンをしていましたが、『胡同の一日』を作る時も同じ事を考えていたんです」世界から注目を集めていたオリンピック直前のピリピリした雰囲気が街を包んでいた北京での撮影は精神的にかなり大変だったと鈴木監督は語る。メイン会場の完成が間に合わないのでは…?という報道が世界を駆け巡っている中、オリンピックによって壊される街の話しなどは当局から許可が降りるはずもなかった。しかし、ただ古い街並だけを撮ってもノスタルジックな作品になるだけだ。それだけはしたくなかったという鈴木監督は日本に戻って編集の段階で数多くの胡同が取り壊されてきた事実をエンドクレジットの前に挿入した。 そもそも、北京で映画を撮ろうと思ったのは、独立起業した友人のプロデューサーが自分たちの作りたい映像を作りたいから監督として協力してくれないか?と誘われたのがキッカケ。最初は友人の会社を宣伝する5分くらいのちょっとしたショートフィルムを作る程度にしか考えていなかった。その舞台に選ばれたのが北京。2日程度で撮れる場所を探しに行った時、衝撃的な出来事を目の当たりにした。「せっかくだから…と、上海に行って、また北京に戻ったら、数日前にはあったはずの街が1区画ごと跡形も無くなっているんですよ。そこで初めて知ったんですよね…オリンピックの工事によって、ものすごいスピードで街を破壊しているんだって」鈴木監督は、これこそ映像で残しておかないと、近いうちに全部消えてしまうのだ…と思い、帰国してすぐ、この消えていく街を舞台にした脚本に着手した。 鈴木監督が映画作りで最も大切にしている事は、自分で脚本を必ず書くという事。例え、原案が別の人が作ったものだとしても、それを映画にしたいと思った時に監督の語り口が重要なのだと語る。「監督って昔でいうところの焚き火を囲んで物語を話す語り部みたいな役割だと思うんです。昔、こんな事があってな…みたいな。つまりストーリーテラーとして何かを物語を語るとしたら、自分で設計図を書かないと絶対に自分の映画にならないですから」だからこそ、どういった作品でも、出発点は自分で書く事から始めるようにしているという。また両作品に共通しているのは、鈴木監督が一番描きたい部分だけを抜き取っているところ。「ショートフィルムの魅力って、そういうところなのかな…って思います。2時間かけた起承転結のドラマで、誰もが同じような気持ちになるように、結へと誘導して行くのが長編映画。でもショートフィルムって、長編のようには説明出来ない…それが逆にイイ。起承転結の承転だけで終わっても、そこから先は観客が自分で想像したり、行間を読み解ってもらったり…観客に委ねる部分が大きいのが魅力的ですね」 ショートフィルムをよく長編小説と短編小説に例えられる事があるが、鈴木監督はショートフィルムは俳句に似ていると言う。「長い短いではなくて、味わい方の違いなんです。短いからこそ面白いものがあったりとか…短いなりに伝わる物があったりとか。そこを勘違いしちゃうと違う物になっちゃう。こういう表現でになるんだ!という驚きって、俳句ですよね?そう考えた時に自分の中では腑に落ちたんです」確かに『胡同の一日』で主人公が大きな薬棚をリヤカーに積んで朝もやの通りを走らせる後ろ姿だったり、『一粒の麦』でレシピが失敗の記録を綴った役に立たないものと知り落胆した絵里子が小麦畑に立ち、そのレシピの真の意味を理解した時に、雨雲から太陽の光が雲を塗って差し込む心象風景は、まさに俳句のようではないか。 ちなみに『一粒の麦』に出て来るブルース・リーの台詞(考えるな感じろ)は鈴木監督が好きだから。「パンを作る時に大事なものって何なんだろう?と考えるとレシピとかロジカルなものではなくて、感覚なんだろうな…って。だからブルース・リーのセリフを入れようと思ったんです」面白いのは、ウチキパンの打木豊さんにそういった取材は一切していないのに、パン作りに対する気持ちの部分が、意外と真を付いていたという。確かに先日、インタビューをさせていただいた打木さんの話と共通点が多い事に驚いたのだが…「まぁ、ある意味、パンと映画の違いはあっても同じ職人同士ですからね」と、最後に笑顔で述べてくれた言葉が胸に残った。 取材:平成29年1月17日(火)株式会社パシフィックボイス スタジオにて
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