日本を代表する女優―と、言っても過言ではないだろう―岩下志麻。昭和35年に篠田正浩監督の『乾いた湖』で映画界デビューを果たし、その後小津安二郎監督『秋日和』に出演。小さな役ながらも松竹大船では彼女の大抜擢は大きな事件となった。現在でこそ岩下志麻と言えば『極道の妻たち』や『鬼龍院花子の生涯』に出て来る迫力のあるお姉さんだったり、『鬼畜』や『鬼平犯科帖』みたいな稀代の悪女だったり…といった怖い女性のイメージが強いが、生まれた時から怖かったわけでは無い。デビュー当初は、すっきりとした顔立ちとスラリとした長身のプロポーションを活かした清楚な娘役が多かった。彼女が映画界にデビューしたのが19歳の時だから、清楚な娘役が多いのは当たり前なのだが…当時の娘役女優の中でも群を抜いて可憐で儚気な雰囲気を持っていたのは、彼女ぐらいではなかっただろうか。きめ細かな透き通る肌は、健康的…と、いうよりも控えめに人生を送っているイメージに向いていたのだろう。とにかく、娘時代の岩下志麻は可愛いのである。現在の極妻の志麻さんしか知らない世代が『秋刀魚の味』を観たら、たれ目がちなウサギのような瞳で遅く帰った父に淡々と小言を言うシーンで、「この女優さんは誰?」状態になる事だろう。反対に、昔の彼女しか知らないお父さん世代が姉御時代の岩下志麻を観たら、嫁に出した娘が、極道の元に嫁いで行ったような気持ちになりショックで寝込んでしまう事だろう。
岩下志麻のデビュー作は意外にも映画ではなくテレビドラマからであった。昭和33年NHKの生放送ドラマ“バス通り裏”で十朱幸代の相手役として出演し、その後回を追うごとに出演シーンが多くなっていったのだが、この当時、まだ本格的に女優業を歩むつもりは無かったという。しかし、それが縁で松竹から新人契約の話しが持ち上がり、19歳にして木下恵介監督作品の『笛吹川』にて高峰秀子の娘役として起用された。ここからが、映画女優―岩下志麻がスタートするわけである。わずか数行のセリフで出演シーンもほんのわずかであったが、天気にこだわる木下監督がなかなか撮影に踏み出せず、10日くらいで終了するつもりだったロケは一ヶ月半にも及んだというのは有名な話し。そのおかげで『笛吹川』がデビュー作となるはずだったが、次回作である『乾いた湖』が先に公開され、事実上の映画デビュー作となってしまった。寺山修司の脚本を映画化した本作における志麻さんの役どころはテロリストを愛してしまう女子大生であり、この映画でいきなり共演者の三上真一郎とラブシーンを演じる事となった。そして、デビュー年の最後に出演したのが小津監督の名作『秋日和』である。そして、翌年に出演した『あの波の果てまで』が大ヒットとなり、岩下志麻の名前は全国に知れ渡るようになる。この作品は前・後・完結編の三部作構成となっている松竹のメロドラマ路線である。今で言うところの“赤いシリーズ”等で知られる大映テレビ路線のような内容で彼女の清楚で純情なイメージが決定的なものとなった作品だ。
『あの波の果てまで』で松竹の看板女優となった彼女は翌年、小津監督の遺作となり、最高傑作とも称される『秋刀魚の味』で笠智衆に次ぐ主役級を演じる事となる。母がいないため父と弟の面倒をみている適齢期を迎えるしっかり者の娘の役だ。この映画の中で、あろうことか岩下志麻は兄の同僚である吉田輝雄演じる青年にフラレてしまう。彼に婚約者がいることを告げた時、一瞬だけ顔を下に向けて、何も無かったかのように2階へ上がってしまう。「案外、ショックは無かったようだ…」等と呑気に安心した父と兄だが、実は自分の部屋でひっそりと泣いている事を知り二人が慌てるシーンがある。彼女の強さと脆さが同時に現れるシーンであり、岩下志麻の演技が確実に小津監督の美学に応えていた…と、感じられるシーンであった。残念な事に、本作が小津監督の遺作となってしまったが、生きていたら岩下志麻は、きっと原節子の様に常連となっていたに違いない。翌年、中村登監督の名作『古都』に出演し、双子の姉妹をオプチカル合成によって交互に演じ分けた。両家の呉服問屋に引き取られた姉と京都の山奥で決して裕福とは言えない生活を送っていた妹の二役を演じ、川端康成の世界を見事に表現してしまっていた。何と言っても、二人の岩下志麻を堪能できるのだから志麻さんファンにとってはたまらなくウレシイ作品だ。中村監督とはその後も『紀ノ川』『智恵子抄』等といった文芸作品でコンビを組むこととなるのだが、やはり一番は『古都』の岩下志麻である。義父の作った帯を付けながら京都の町を歩く彼女の姿は、娘役を演じていながらも大人の女の色気を仄かに感じさせる…こんな女優は現在に至っても見当たらない(だって、この頃はわずか22歳ですからね…凄いです)。
『いいかげん馬鹿』と『馬鹿が戦車でやって来る』では、まだ本格的な喜劇を手掛けたばかりの山田洋次と続けてコンビを組み(思えば一度彼女を使った監督は必ず次回も使う…のが多い気がする)淡々とした演技が逆に面白さを醸し出し、思わぬ大ヒットを記録。この成功によって松竹の看板女優は、喜劇も行けると証明したのだった。同じ年…女優、岩下志麻にとって転機となる機会が訪れる。山本周五郎原作の時代劇小説を野村芳太郎が監督としてメガホンを取った『五瓣の椿』である。途中休憩が入る3時間にも及ぶ松竹映画の超大作の主演は彼女にとって初めての悪女となったのだ。母と関係した男たちを父親の好きだった花―椿で殺してゆく汚れ役を演じる事は、岩下志麻という女優人生に更なる深みと、それまで娘役として純情なイメージを売り物にしていた彼女自身にとっても、今後の女優業について考えるきっかけとなった作品だ。毎夜、椿のかんざしの夢を見続ける程、役にのめり込んだ結果、鬼気迫る岩下志麻の演技は、高い評価を獲得し、その年のブルーリボン賞を受賞する事となる。彼女自身、この作品によって女優としての自覚を持つ事が出来たと語っている。23歳の時の事である…『五瓣の椿』によって岩下志麻は、女優として生きていく決意を固めたのだ。
岩下志麻は、川端康成の原作映画に通算3本出演しているおかげで、晩年の川端康成と懇意にされていたという。彼女の自叙伝『鏡の向こう側に』に詳しく記述されているが『古都』『雪国』『日も月も』が製作されていた頃は、川端康成も存命で、軽井沢の別荘に遊びに行った時のエピソードや、『日も月も』の撮影中に飛び入り参加してエキストラとして出演されたエピソードが紹介されている。一人の女優が主役で川端康成の作品に3本も出演したというのは、決して少ない数ではない。川端康成の作品に出て来る、芯の通った女性像が岩下志麻のイメージにピッタリと符合したからに違いない。
明治32年6月14日大阪に生れた川端康成は東京帝国大学国文学科卒業後、菊池寛に認められて文壇入りをして、横光利一らと共に『文藝時代』を創刊。新感覚派の代表として『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表し、昭和43年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。幼くして立て続けに近親者を亡くし大阪府立茨木中学校の寄宿舎に入り、中学2年の時に作家を志すようになった。卒業と同時に上京し、第一高等学校の一部乙、英文科を経て東京帝国大学文学部英文学科に入学。その頃に知り合った今東光、鈴木彦次郎、酒井真人らと共に同人誌『新思潮』を創刊する。更に大学卒業後、同人雑誌『文藝時代』を創刊し、「伊豆の踊子」を発表している。その後『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、昭和19年、『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。以降も『千羽鶴』『古都』などの名作を上梓しながら、一方で日本ペンクラブ第4代会長に就任した。しかし、昭和47年4月16日逗子マリーナ・マンションの仕事部屋でガス自殺を図り帰らぬ人となった。遺書が無いため自殺の原因は不明だが、ノーベル賞の受賞が重圧になったとも、交遊の深かった三島の割腹自殺などによる強度の精神的動揺とも様々な憶測が流れていた。昭和48年に財団法人川端康成記念会によって川端康成文学賞がつくられ、昭和60年には茨木市立川端康成文学館が開館している。
川端康成が昭和を代表する文豪であっただけに、数多くの原作が映画化されてきた。中でも“伊豆の踊り子”は、美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵…と、5回もリメイクされてきた程、人気の高い作品だ。中でも、山口百恵が主演した1974年(昭和49年)版は、既にアイドルとして絶大な人気を誇っていた彼女の映画デビュー作にしながら、あどけない中にもしっかりとした演技力が高く評価され大ヒットを記録。共演の三浦友和と共に東宝のゴールデンコンビとして次々とシリーズを打ち出して行く事となる―その後、二人は市川崑監督作品の“古都”にも出演している―。こうして見ると“伊豆の踊り子”は、これから売り出して行こうとする女優の登竜門のような気がする。ちなみに岩下志麻が出演している『雪国』は2回目のリメイクであり、その8年前に岸恵子主演、豊田四郎監督による同作品が映画化されている。
川端康成の原作を映画化した監督としては、前述の中村登に続き、女性を描かせたらこの監督の右に出る者はいないと言われている成瀬巳喜男監督が“めし”と“山の音”を発表している。特に“山の音”は原節子を主演に迎え、浮気を続ける夫の元から自立する道を選ぶ主人公の姿を古都―鎌倉ののどかな風景を背景に淡々と描く傑作として高く評価されている。この作品にも共通している事だが、主人公の女性は誰しも決して幸せな境遇にあるとは言えない。その中で力強く生きている(生きようとしている…と、言った方が正しいだろか)姿が物語の中枢にある。だから、川端康成の原作に出て来る男性は皆、卑怯か傍観者でいるしかない。それは、戦後の社会で男性優位の神話が見事に崩れ去り、男なんかに頼らず自立する…と、いった自己に目覚めた女性が増えてきたからに違いない。こうして、川端康成の原作は戦後に生きる多くの女性たちに共感され受け入れられたのである。
岩下 志麻(いわした しま) 本名:篠田 志麻(しのだ しま)
1941年1月3日 東京都中央区銀座生まれ。
東京都立武蔵高等学校から明星学園高等学校へ編入。成城大学文芸学部中退。父は、同じく俳優の野々村潔。四代目河原崎長十郎は義理の伯父に当たる。現在はグランパパプロダクション所属。夫は映画監督の篠田正浩。1967年3月3日、篠田監督と京都の大徳寺で白井昌夫松竹専務夫妻の媒酌で挙式。式は仏前結婚式で、般若心経を誦した後、数珠を交換した。三三九度は茶碗に薄茶を入れて行った。今年で結婚生活40年を迎えた。
女優デビューは、テレビドラマの方が先で1958年のNHKドラマ「バス通り裏」、映画では2年後の1960年の『笛吹川』(木下恵介監督)。映画界では松竹の看板女優として大活躍。松竹には1960年から1976年まで16年の長きにわたり在籍し、その屋台骨を支えた。1960年の映画『秋日和』の数シーンで岩下を起用した小津安二郎監督は、彼女の女優としての素質を誰よりも真っ先に見抜き、「10年に1人の逸材だから大切に育てるように」と松竹の幹部達に語ったという。1962年には、小津監督にとって映画「秋日和」以来の松竹作品であり、遺作となった映画『秋刀魚の味』のヒロインに抜擢され、この世界的巨匠のラストを見事に締めくくった。小津監督は次回作も岩下をヒロインに想定して構想を練っていたという。その後、夫である篠田正浩監督作品を始め数々の巨匠の作品に主演を果たし、近年では『極道の妻たち』シリーズが代表作として幅広い年齢層に支持されている。また、日本メナード化粧品のCMに長く出演していることも業界では広く知られており、28年という専属タレント契約としては世界最長の記録がギネスブック(国際版)に認定され、現在もその記録を更新中である。松竹創業110周年祭の記念トークショーでは「松竹では素晴らしい作品や監督に出会えて育てていただいたので思い入れがあります。女優王国で男優さんより女優さんという感じで居心地は最高でした。」と語った。
・平成16年春の紫綬褒章
・平成16年第55回日本放送協会放送文化賞
・平成5年『新・極道の妻たち』第6回日刊スポーツ映画大賞主演女優賞受賞
・昭和58年『極道の妻たち』第3回田中絹代賞受賞
・昭和52年『はなれ瞽女おりん』第1回日本アカデミー賞主演女優賞受賞、報知新聞主演女優賞等
・昭和44年『心中天網島』毎日映画コンクール主演女優賞受賞、キネマ旬報主演女優賞等
・昭和39年『五瓣の椿』ブルーリボン主演女優賞等
・昭和38年『古都』京都映画コンクール主演女優賞
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【参考文献】
鏡の向こう側に
238頁 20.6 × 2.8cm 主婦と生活社
岩下 志麻【著】
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【参考文献】
シネアルバムVol.11 岩下志麻
20.6 × 2.8cm 芳賀書店
田山 力哉【責任編集】
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