夕日に染まる清水寺を見ている千重子と真一…そこから見える京都の街並を眺めている二人にカメラが静かに寄って行く。ゆっくりと横にいる真一の顔を見つめながら「うちは、捨て子どしたんえ…」と告白する千重子。カメラはまだ、静かに二人に近づいてゆく…背景に映し出される清水寺の舞台に観光客がゆっくりと動いているのが見える。中村登監督の代表作として名高い『古都』の前半で岩下志麻演じる主人公、千重子が恋人に自分の生い立ちを話す…物語の核となる説明シーンだ。手前に岩下志麻と恋人役の早川保、その奥に清水寺、そして遠くに京都の街並…といった3つの対象物が美しいコントラストを作り出している。ロケーション撮影にこだわった中村監督の手腕が冴えるシーンだ。岩下志麻と中村監督のコンビは多く製作されたが、その中でも本作が抜きん出ているのは、中村監督がスクリーンを日本画のように見立てて、アングルや色彩にこだわり京の街の中に佇む岩下志麻が完璧と言える程の構図で全ての映像に納まっているからであろう。また『紀ノ川』の冒頭で和歌山県を流れる紀ノ川を司葉子演じる花嫁を乗せた何艘かの舟が下っていく光景も構図にこだわった中村監督らしい壮大でありながら情緒的な雰囲気を持ってる映像となっていた。
中村登監督は昭和16年6月に、記録映画『生活とリズム』で監督デビューを果たし、26年の松竹大船調を踏襲したホームドラマ『我が家は楽し』において、優れた演出ぶりを評価され、昭和28年には松竹カラー映画の第2作目『夏子の冒険』に大抜擢される。カラー映画にふさわしい華麗な映像で描かれた本作によって第一線の監督として名声を築いた。中村登監督と言えば、やはり文芸作品監督というイメージが筆頭に挙げられるが、永井荷風原作の『つゆのあとさき』がそのイメージを定着させる第1作目と言った方が良いだろう。昭和初頭に生きて来た銀座の女給たちの妖しくも美しい官能の世界を中村監督が脚色も務め、原作に引けを取らない見事な作品に仕上げていた。特に昭和41年に監督した松竹の大作『紀ノ川』では、女優・司葉子の代表作となる程、彼女の魅力を最大限に引き出し、ベテラン監督としての風格を知らしめた名作となった。そして、その翌年…高村光太郎の詩集“智恵子抄”と佐藤春夫の“小説智恵子抄”を原作として『智恵子抄』を発表。ここでも岩下志麻とコンビを組む事となるが、智恵子の役を切望したというだけあって本作は彼女にとっても代表作となった。この作品もまた誰もが知っている内容の映画化だけに中村監督は製作するにあたって5ヶ月の準備期間を設けて、撮影日数に60日間を費やし完成させた。本作においても長期ロケーション撮影を敢行し、福島県の二本松から裏磐梯、犬吠埼、九十九里…と、美しい背景の前で詩情豊かに智恵子の姿を描いていた。本作の製作に当たって「世の中に、このような愛が存在するのかと思う程、純粋な愛の姿を描き切って、観る人の心に鮮烈な感動を呼び起こす映画を作りたい」とコメントしている通り、後世に残る素晴らしい作品となった事は間違いない。
中村監督と13本の映画で撮影監督を務めた竹村博は、後に監督の言葉をこう回想している「どんな立派な作品でも、どこかに気休めが必要。最後まで1カットもゆるがせにせじと、ふんばると観客は耐え切れなくなるもの」。撮影時もスタッフが疲れてくると半日で撮影を終了してしまうなどバランスを大事にしていたという。その代わり、ここ一番の重要なシーンの時は夜を徹してこだわり抜く。だからこそ、関わった多くの俳優やスタッフに中村監督は慕われ続けたのであろう。(参考“松竹シネサロン 中村登フェア”パンフレット)
中村監督は文芸作品の中でも女性を主人公に描いた作品が多く、前述した作品以外にも『暖春』『惜春』と一連の作品で女性の愛を描き続け、多くの女性ファンを魅了していく。中村監督の映像は、かなり固いしっかりとした明暗の色調であるにも関わらず(どちらかというと男性っぽいのだが)多くの女性に共感を得られたのは、どの作品を持ってしても絵画をイメージさせるからであろう。先に『古都』の映像を日本画のよう…と表現したが見方によってはルノワールやクレー(そう言えば作中にクレーの画集を見るシーンがあった)を彷彿とさせる色合いや映像があったりする。このタッチは現在の日本映画では表現する事は叶わないだろう。昭和11年に松竹へ入社した中村監督。折しもトーキーが完成時代に入っていたため技術的にも芸術的にも映画というものが変革期に差し掛かっていた頃であった。当時の松竹撮影所は監督・助監督はプロデューサー兼所長であった城戸四郎直属であり、中村監督が得意とする女性映画の原点は城戸プロデューサーの影響に因るところが大きいと本人が後に語っている。当時の企画はサロンに集まって喋っているうちに骨組みが固まり、箱根の宿泊所・清光園で脚本家を呼んで2週間で書き上げてしまう。そんな事を繰り返していくうちに中村監督のスタイルが出来上がっていたという。また、当時松竹で活躍されていた渋谷実・吉村公三郎・原研吉・大庭英雄らのセカンドとしてついていた事によって数多くのテクニックを習得。戦前の一時期、モダニズムが入って来て以来、女性映画を得意とするようになった松竹によって中村監督の感性が磨かれたわけである。
―「監督というのは、先ず第一に良い台本を掴むこと。内容も優れていて表現も素晴らしい。こうしたシナリオを手にして、群を抜いた演出技術が重なってゆけば鬼に金棒さ」―(参考“松竹シネサロン 中村登フェア”パンフレットより)
中村 登(なかむら のぼる)
大正2年8月4日 東京都下谷生まれ
幼い頃から浅草六区映画街に出入りし、映画の世界に引き込まれ、昭和11年、東京帝国大学文学部を卒業と同時に松竹の助監督部に第一期生として入社した。当時、大学出の初任給が75〜80円だったのに対し、助監督の給料は25円+食券5円だったという。蒲田から大船へ移転したばかりの松竹で監督部・助監督部は他の管理職の影響を受けない部署であり、城戸四郎所長の直属となっていた。斎藤寅次郎・島津保次郎・吉村公三郎らに師事し、セカンドとして活躍する傍ら、風見隆のペンネームで多くのシナリオを執筆している。太平洋戦争が勃発した昭和16年に記録映画『生活とリズム』で監督に昇進、続いて同年に『結婚の理想』でメガホンを取り、劇映画としてのデビューを果たす。
戦後間もなく製作した昭和26年の『我が家は楽し』は、松竹大船調のホームドラマだったが、この映画において優れた演出ぶりが高く評価され、昭和28年、『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督作品)に続く国内カラー映画第2作目『夏子の冒険』で第一線監督として名声を築き上げる。その後も意欲的な演出ぶりで一連の名作を撮り続け、文芸作品において無くてはならない監督として、その名を定着させていった。特に女性映画に優れた作品を遺している。岡田茉莉子、岸恵子、岩下志麻、桑野みゆき、有馬稲子、倍賞千恵子、司葉子等…モノクロから天然色(カラー)に移り、銀幕の女神たちを身近な存在にしてしまった。昭和28年の『古都』でアカデミー外国語映画賞ノミネートされ、昭和42年の『智恵子抄』においても2度目のアカデミー外国語映画賞にノミネートされている。また昭和41年に製作された松竹の大作『紀ノ川』では東宝から司葉子を招き、彼女の代表作となるべく演技力を引き出しベテラン監督の風格を見せつけた名作として語り継がれている。遺作となった昭和54年製作の『日蓮』に至るまでコンスタントに映画を撮り続けていた中村監督だが、昭和56年5月20日、肝硬変のため68年の人生に幕を下ろした。その後、勲四等旭日章を受賞している。(“松竹シネサロン 中村登フェア”パンフレットより一部抜粋)
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