あの、夏の日〜とんでろじいちゃん
ボク、おじいちゃんと空を飛んだよ。でも、ナイショなんだ。
1999年 カラー スタンダードサイズ 123min プライド・ワン、P・S・C
製作 芥川保志、大林恭子 監督、脚本、編集 大林宣彦 脚本 石森史郎 原作 山中恒
撮影 坂本典隆 照明 西表灯光 美術 竹内公一 音楽 學草太郎、山下康介 録音 内田誠
出演 小林桂樹、厚木拓郎、菅井きん、勝野雅奈恵、入江若葉、嶋田久作、松田美由紀、佐野奈波
上田耕一、石田ひかり、小磯勝弥、宮崎あおい、久光邦彦、林泰文、天宮良、山本晋也、芥川志帆
ベンガル、根岸季衣、大和田伸也、ミッキー・カーチス、大前均
故郷・尾道を舞台に“尾道三部作”“新・尾道三部作”と名作を世に送り出した大林宣彦監督。尾道市が市制百周年を迎えた年に発表したのが本作である。1993年度野間児童文芸賞受賞作である山中恒の小説“とんでろじいちゃん”を原作として石森史郎と大林監督が強度執筆で脚本を書き上げた。ぼけたのではないかと思われているおじいちゃんを演じるのは東宝の社長シリーズで有名な名優・小林桂樹、その妻に『お葬式』で日本アカデミー賞助演女優賞を獲得した菅井きんがそれぞれ重厚な演技を披露している。主人公のポケタを演じる厚木拓郎を始め、勝野雅奈恵、佐野奈波といった若手俳優たちが新鮮な演技を披露している。また、映画初出演となる宮崎あおいがキーパーソンとなる重要な役で見事な演技を披露している。
ボケ気味のおじいちゃん(小林桂樹)を監視する為、夏休みの間、忙しい両親や受験生の姉の代わりにひとり尾道を訪れた小学校5年生の由太(厚木拓郎)。だけど、おじいちゃんと一緒の夏休みは不思議なことがいっぱいで、監視どころじゃない。おじいちゃんが唱える「マキマキマキマキ巻ましょう マキマキ巻いたら夢の中」という謎の呪文で隣の島へ空を飛んで渡ったり、ホラタコの多吉(小磯勝弥)という気味の悪い子供と出会ったり、由太が子供の頃のおじいちゃんやパパに間違われたり。実は、由太はおじいちゃんと一緒におじいちゃんが子供だった時代へタイムスリップしていたのだ。それから数日後、由太はミカリ(勝野雅奈恵)という少女と海で出会い、彼女の家である長恵寺に遊びに出かけた。そこには、小指のない弥勒様や「開かずの間」があり、その開かずの間にはおじいちゃんが時々口ずさむ歌のレコードがあった。それは、ずっと昔に開かずの間で死んだお玉さん(宮崎あおい)という少女が好きだった曲なのだそうだ。その話を聞いた由太は、お玉さんとおじいちゃんがどこかで繋がっているのではと考えるようになる。そして、おじいちゃんとふたり、再び呪文を唱えて過去の世界へ飛ぶのだった…。お玉さんは、おじいちゃんの初恋の人であった。しかし、彼女は肺病を患っていて、おじいちゃんは彼女に気持ちを伝えられないまま、彼女と死に別れていたのである。ところで、おじいちゃんはお玉さんの死期を早めたのは自分の責任だとずっと心を悩ませていた。お玉さんに玉虫をとってあげようとして弥勒様の小指を折ってしまい、その罰が当たったのだと思っていたのだ。しかし、真相は違っていた。小指を折ったのは実は多吉で、彼はその罪をおじいちゃんになすりつけていたことが判明する。気持ちが晴れ、すっかり安心したおじいちゃんと元の世界へ帰ってきた由太。その日、長恵寺から弥勒様の指が見つかったと電話が入った。おじいちゃんが倒れたのは、それからすぐのことだった。由太の看病も空しく、おじいちゃんはこの世を去る。長恵寺で営まれた葬儀は、それは立派なものだった。秋になって、東京へ帰った由太。彼は、時々おじいちゃんが空を飛んでいる姿を見る。
本作は、新尾道三部作の最終章であり、大林宣彦監督が尾道を舞台として映画を作った最後の作品でもある。物語は尾道に住む小林桂樹演じるおじいちゃんがボケたのでは…?という事で夏休みにお目付役として派遣された孫の優太が不思議な出来事を体験するファンタジーだ。何故かおじいちゃんは過去の尾道にタイムリープ出来る能力を持っており、優太もおじいちゃんと共に昔の尾道に時間旅行をするというもの。…と、このようにかいつまんで説明すると郷愁に満ち溢れた『野ゆき山ゆき海辺ゆき』のような牧歌的なドラマを想像しがちだが本作ではその根底に、失われた風景へのオマージュを捧げると同時に、利便性を求めて日本の原風景を破壊してきた社会に対する批判も込められている。大林監督が作った映画によって一躍脚光を浴び、観光地となった尾道。次第に昔の面影は消えて行き、かつて『転校生』や『さびしんぼう』の中にあった風景は見当たらなくなってしまった。無作法に街を蹂躙する観光客だけではなく、行政側も観光客を呼び込むために本来あるべき姿を見失ってしまっている事に、大林監督は怒りと悲しみを感じていたのだろう。それは、優太がおじいちゃんの眼鏡を掛けると向島に架かる2本の橋が無くなり、フェリーすら消えてしまう…といった今あるものをCGで消し去ってしまう行為からも大林監督の気持ちを汲みする事ができる。その昔、向島との間にはフェリーも橋も無かった時代…病気になっても目の前にある尾道まで泳いで医者を呼びに行き友達を亡くしてしまった過去をおじいちゃんが話すシーンがある。橋があったら助けられたのに…という思いから作られた橋。しかし、映画の中で、その横にもう一本、建設中の橋が映し出される。「最初は感謝していたのに、それが当たり前と感じるようになっとる!」と、おじいちゃんは声を荒げる。そんな現象は日本各地で起きており、本当に必要だから自然を破壊してまで作っているのか?…という事だ。おじいちゃんと優太が、既に存在しなくなった小川でメダカやドジョウをすくって遊ぼうとするのだが、それは現在の尾道では不可能な事…過去に行くしか手はないのだ。尾道市制百周年記念映画として大林監督が山中亘の原作を尾道に置き換えて、街に警鐘を打ち鳴らしたのは意義のある事だと思う。
本作で青空にこだわったという大林監督だけあって、尾道の街を眼下に空を優雅に飛ぶおじいちゃんと優太の姿が秀逸の出来だ。優太が空を飛んでいる時、ふと隣のおじいちゃんを見ると子供に戻っているシーンなんて意外と怖かったりする。大林監督の作品はファンタジーであっても、どこか死をイメージさせる部分がある。それはまるで、祖母の家に行った時、仏間の壁に飾ってある白黒の写真を見た時の怖さに似ている。おじいちゃんの初恋の相手である肺病を患ってお寺の部屋で短い生涯を終えた少女(宮崎あおいの可憐な演技に拍手)が窓越しに見えるシーンも美しさの中に、死を感じさせる。それは、大林監督の構成と話しの持って行き方の妙だと思う。その前のシーンで、優太は現在の寺のその少女がいた部屋(今では開かずの間と呼ばれている)を訪れているのだ。主を亡くしたまま朽ちてゆく埃にまみれた部屋と残り少ない命を懸命に生きる若く美しい少女を対比させる事で、“命の尊さ”や“生きる事の素晴らしさ”が、より鮮明に伝わってくる。CGで再現される砂浜のある尾道の風景と今の尾道のリアルな風景を見比べて、CGで作られている方が生命力を感じるのは、何とも皮肉な話だ。
「尾道はどんどん変わって行くけ…おじいちゃんはボケちゃって、かえって幸せじゃったかも知れんの」と、渡し船に乗りながら尾道水道の風景を見ながら菅井きん演じるおばあちゃんがしみじみと言う。
|