緒形拳という俳優はひとつの役の中で様々な表情を見せる。飄々とした風貌の冴えないオジサンかと思うと次の瞬間、嶮しい顔つきで相手を威圧する。一本筋が通った人格者でありながら意外と女にだらしなく人懐っこい笑顔でデレデレする…緒形が演じると、その落差が実に愛すべきキャラクターとなる。こうした巧みなキャラクターの切り替えは新国劇時代に辰巳柳太郎と島田正吾という性質の異なる二人の師に学んだ事に起因しているのだろうか。叩き上げの新聞販売局長を演じた『社葬』(舛田利雄監督)では、地方販売店の荒くれ達を一括しながらも料亭の女将にデレデレな一面を見せる。『国会へ行こう』(一倉治雄監督)では、優しく有権者のオバサンたちに語りかけながら裏に回ると「アイツ等の政治意識は猿以下だ」と言い捨てる政治家に扮した。こうした二面性を持つ演技を披露するようになった昭和60年代以降の作品群…舞台俳優、映画俳優、テレビ俳優という3つの側面を持つ緒形拳が最も精力的に活躍していた時代。テレビではトレンディードラマが流行し、映画業界にもテレビ局が参入し始めていた。前述したキャラクターは正にその頃から前面に出始めたと記憶する。(TBSドラマの傑作“愛はどうだ”なんて正にドンピシャだ)映画製作にテレビ局が参入すると「映画がテレビのスペシャルドラマの延長線になってしまった」と揶揄する声が聞こえ始めた頃だ。正に緒形がテレビと映画に多忙を極めたこの時期に公開された作品群。今回は緒形本人が自分のベストムービーを挙げるとしたら多分入らないであろう作品(一部例外もあるが)も特集に組んでみた。もっとも「緒形拳の代表作=今村昌平監督作品」というありきたりの図式を破壊したかったという思いが本音というところなのだが。(と言いつつ、近日今村昌平監督特集で取り上げる予定)
昭和30年代、新国劇で異例の出世を遂げた緒形だったが、その緒形を「これが映像の顔だ」と舞台俳優からテレビや映画俳優への可能性をいち早く見出したのは劇団のトップ辰巳柳太郎であった。劇団のリハーサル風景をテレビカメラが入った時に偶然、緒形の顔がアップになり、これを見ていた辰巳が発した言葉だ。確かに喜怒哀楽を巧みに操る緒形の微妙な表情は自在に俳優の顔をクローズアップする映像でこそ真価を発展できる。そして、時は昭和40年―既に娯楽の中心は映画からテレビへと移り始めていた頃に緒形はNHK大河ドラマ“太閤記”で主役・太閤秀吉を演じる事となる。そして7年後には緒形の当たり役となる“必殺仕掛人”の藤枝梅安へと続く。池波正太郎のオリジナルキャラクターに女好きという要素を緒形が加えた事で、非情な殺し屋・梅安はユーモラスで親しみのあるキャラクターとして幅広い年代から人気を博した。ひょっとすると硬派な人物が女好きという一面を持つキャラクターというのは梅安が発祥かも知れない。
野村芳太郎、工藤栄一、五社英雄、深作欣二…そして今村昌平と緒形拳を好んで何度も起用する監督は多いが、逆に若い監督と組む事も多く相米慎二の『魚影の群れ』、金子修介『咬みつきたい』、大森一樹『継承杯』池端俊策『あつもの』等々…。若い才能に胸を貸してやるような感覚で真剣に向き合っている姿に感銘を覚える。語弊があるかも知れないが緒形拳という俳優は演じた役を見る限り、自分の立ち位置を理解した上で作品に溶け込める性質を持っているように伺える。『八甲田山』や『復活の日』では脇役というスタンスを守りつつ、映画に深みを与えていた。(つまり主役を食わないがギリギリ無くてはならない存在感を有しているという事)中でも『復活の日』で演じた人類滅亡を前に嘆く大芝居を見せる医師と『魔界転生』で演じた老年期の宮本武蔵は忘れられない。共に深作欣二監督作品だが、前者では「どんな事にも終わりはある…どんな終わり方をするかだ」という名セリフを残し、後者は正に魔界から蘇った気迫を漂わせ間違いなく最大の見せ場となる千葉真一演じる柳生十兵衛との見事な対決シーンを披露した。(二人は『激突 将軍家光の乱心』で再び剣を交えるのだが)そうかと思うと『魚影の群れ』のような一人マグロと対峙する独断場では気迫がスクリーンから飛び出して観終わって劇場を後にした時、グッタリとした経験がある。本人が「社会復帰できないのでは?」と思ったほどロケ地の大間で暮らし歩き方から全てが地元の漁師になりきっていたという、命がけで撮影に挑んでいたのだから観客にビンビン伝わってくるのも当たり前の事か…。
「一番苦手なのは欠伸が出てきそうな映画」と語っていた緒形は自分が出ている作品に対してはいつも客観的な評価をしている。そこには一切の妥協はなく逆に厳しすぎるのではないかとさえ思えるのだが「俺は大衆演劇の役者として自分の居場所は舞台の中央じゃなくても作品自体が面白ければそれでいい」という発言から、映画を総合芸術として考え、俳優はその一部と位置付けていたのではないだろうか?だから前述した脇役で出演していた作品は緒形の主演作ではないにも関わらず彼の芝居が全体的な調和をもたらしていたわけだ。決して代表作とは言えなくても今回取り上げた作品はいずれも、あまり前に出過ぎず…それでいてしっかり存在感をフィルムに焼き付けたものばかり。シリアス一辺倒な緒形拳も好きだが、険しい演技の中に時折垣間見える無邪気な緒形拳の演技も好きだ。勿論、こうした演技が出来るのも俳優・緒形拳が自分自身に課せる演技に対する厳しさと飽くなき探求心があってこそなのだろうが…。次回は、もう一歩踏み込んだ映画俳優としての緒形拳に迫ってみたい。
『おろしや国酔夢譚』の主人公である大黒屋光太夫は、宝暦元年(1751年)伊勢国亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の亀屋四郎治家に生まれる。四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいる。父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させる。兄の次兵衛は江戸本船町の米問1778年(安永7年)に兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際して養子に迎えられ、伊勢へ戻ると亀屋四郎兵衛と改める。伊勢では次姉いのの嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)から廻船賄職として雇われ、船頭となる。1780年(安永9年)には沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改める。
1782年(天明2年)12月、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに至る。道中、カムチャツカでジャン・レセップスに会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述がある。イルクーツクでは日本に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る二人が江戸へ送られた。
光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本がのこされた。また甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に対し影響力を強めていくようになった。その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらっている。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ている。昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷伊勢へも一度帰国を許されていることが確認された。寛政7年(1795年)には、大槻玄沢が実施した新元会に招待されている。また、多くの人に招待されてロシアの話を語るなど、比較的自由な生活を送っており、決して軟禁されていた訳ではないようである。(Wikipediaより一部抜粋)
緒形 拳(おがた けん 本名:緒形 明伸 1937年7月20日 - 2008年10月5日)KEN OGATA
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身。
太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれた為、小学校二年生の時に千葉県千葉市登戸町(現在の千葉市中央区登戸)に一家で疎開したという。中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻った。1957年、東京都立竹早高等学校卒業後、憧れていた新国劇の二大看板俳優の一人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、1958年新国劇に入団。辰巳の付き人となる。1960年、新国劇のもう一人の看板俳優、島田正吾に見い出され、『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢された。作品は映画化され映画デビューも果たす。1965年、NHK大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢される。撮影期間も新国劇の活動を休むことは許されなかった。1966年、引き続き、NHK大河ドラマ『源義経』に弁慶役で出演。新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。1968年、新国劇を退団。テレビ・映画に精力的に出演し、テレビでは『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安役を演じる。
1978年、野村芳太郎監督作品『鬼畜』に主演。その年の数々の男優賞を受賞する。その後も1979年に『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)、1983年に『楢山節考』(今村昌平監督)に主演し高い評価と名声を得る。また1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。2000年、紫綬褒章受章。2008年10月4日、自宅で体調が急変。獨協医大病院に運ばれ肝臓破裂の緊急手術を受けるも、翌2008年10月5日午後11時53分、肝癌により死去。緒形の最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取った。息子の緒形幹太・直人兄弟が葬儀の後、プレスインタビューに応え、緒形は以前から慢性肝炎を患い、2002年ごろに肝硬変を経て肝癌に至り、適切な内科的手術を受け投薬治療や食餌療法を受けながら、病を隠して俳優活動を続けていたこと、また2007年暮れには腰椎圧迫骨折の大怪我を負っていたことなどが明かされた。2008年10月31日、長年の演劇界への貢献が評価され、緒形に旭日小綬章が授与(勲記は2008年10月5日付)された。最後の出演作は、ドラマ『風のガーデン』(フジテレビ系列テレビドラマ)となり、死去5日前の9月30日には作品の制作発表にも出席していた。(Wikipediaより一部抜粋)
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【参考文献】 緒形拳を追いかけて
335頁 19.5 x 14cm ぴあ
垣井道弘【著】
2,400円(税別)
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