山崎豊子のベストセラー小説を映画化した『沈まぬ太陽』を観た時、サバンナの地平線から昇る太陽の映像に『おろしや国酔夢譚』を重ねて思い出していた。撮影監督の長沼六男は大胆さと堅実さを兼ね備えたカメラマンという印象が強く、雄大な自然を背景に展開される人間ドラマが多いのもうなずける。(マグロ漁に命を懸ける男を描いた『魚影の群れ』も同様に…)『おろしや国酔夢譚』を大スクリーンで観た時の感動…物語もさることながら雪に覆われた広大なシベリアの大地に昇る太陽に圧倒された記憶が今でも鮮明に残っている。吹雪で何もかも真っ白なホワイトアウトの世界…一気に極寒の地をソリで駆け抜けようとする一行から西田敏行演じる庄蔵がコースを外れ取り残されてしまう。力尽きて倒れ込む庄蔵の向こうからソリに乗った緒形拳演じる大黒屋光太が助けに戻ってくる映像をワンカット(CGなんかじゃない)で見せる本物の迫力。簡単に人間を受け入れない自然の厳しさを表現するにはカメラが重要な役割を担っている。この映画では太陽の映像が実に印象的で、吹雪の彼方にうっすらと見える太陽やオホーツク海に沈むオレンジに輝く太陽…極寒の地では太陽が生命の源なのだとよく分かる。零下50度、風が吹くと体感温度は零下70度まで下がるというロシアの冬での撮影にあたり、カメラが正常に動くか冷凍庫を借りてテストを行ったという。映画の内容や題材によってフィルムを選ぶ長沼は『おろしや国酔夢譚』では油絵のようなベタッとした色彩のアグファを採用。サンクトペテルブルグにあるエカテリーナ宮殿の煌びやかな装飾や荒々しいオホーツク海、そして生命力に満ちた春のイルクーツク等、どの映像をとっても絵画のよう美しさと同時に力強さを持っていた。「フィルムに焼き付けられる映像は単なる対象物だけではなくそこに流れる空気までも収まる。セット撮影ではどうしても作り物という感じが出てしまう」という理由からロケーション撮影を進言した『沈まぬ太陽』ではセットを組んだのは数カットのみ。ロケーション撮影ではライティングよりも現場の雰囲気を尊重したという長沼はロケハンにはある種のこだわりを持って挑む。まずスチールは撮らないという事。記録するのは頭であって、風景を切り取る写真に対しては否定的だ。

 長沼六男がカメラマンになったのはCM監督をしていた兄の影響だという。最初は日活でアルバイトとして『花を喰う虫』(西村昭五郎監督作)のカメラマン安藤庄平の助手につき、昭和43年に松竹の中途採用試験を受けて入社。以降、順調に仕事をこなし早々にピントマンに抜擢されるも山田洋次組の高羽哲夫カメラマンについていた作品でピントをボカシてしまったために山田組をクビになってしまう。ところが平成5年『学校』で山田組に復活。多分、その頃から体調が思わしくなかった高羽カメラマンが自分の後任に…と長沼を再び推薦したのではないだろうか?平成7年の『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が遺作となった高羽カメラマンの後を引き継ぐように以降は全ての山田洋次監督作品にて撮影を手掛けている。かつて山田組をクビになった男が今では山田組に無くてはならないカメラマンとなったのは皮肉な話だ。山田洋次作品で印象に残るのは『たそがれ清兵衛』の真田広之演じる清兵衛が親友と川で釣りをしていると、親友から妹との縁談を清兵衛が持ち掛けられるシーンだ。このシーンの色彩はハワード・ホークスの西部劇のように鮮やかなのだがベタッとした油彩画みたいでフィルムの良さ(映画らしさとでも言おうか…)が際立っていた。庄内の山々がワイオミングみたいだったというのは言い過ぎだろうか。『おろしや国酔夢譚』でもそうした画づくりをするためにアグファのフィルムを選んでいた事からも長沼は1950年代のテクニカラーっぽいトーンを好むようだ。かく言う筆者もデジタル特有のクリアな映像よりも映画は油絵的な厚みがある色彩であるべきだと思っているので、長沼カメラマンが作り出す画は実に映画的と言っても良いだろう。『魚影の群れ』で緒形拳と佐藤浩市が洋上でマグロと格闘するシーンでは、青空と紺碧の海のベタっとした色彩によって大海原の広がりが再現されていた。まさに大スクリーンに投影された時にその真価が発揮された画だった。その後、日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞した『武士の一分』では『たそがれ清兵衛』と対象的に木村拓哉演じる失明した主人公・三村新之丞と壇れい演じる妻が住む屋敷が主要な舞台となっていたため画づくりも変わってくる。禄高三十石足らずの新之丞の狭い屋敷では役者の動きも限られており居間と奥の間…という襖を隔てた縦に並ぶ二つの部屋に役者とカメラをどう配置するかにこだわったようだ。特に妻が不義を告白するシーンは襖を挟んで二人を別の部屋に配置して気持ちの距離感を上手く表現していた。明るい居間にいる妻の方からカメラは暗い奥の間へと回り込ませる事で妻の不安感を観客にも伝える事に成功していた。撮影する時に自分の好みだけではなく観客がどう受け取るかを計算しながらファインダーを覗いていると長沼は「いい画」や「カッコイイ画」を撮るよりも観客が映画に吸い込まれるように観てくれる画を常に考えて撮影しているという。常に作品全体の完成度を考えているからこそ『沈まぬ太陽』の現場で俳優が出した提案を採用したり、手間が掛かるとしても空気感を大切にロケーション撮影を監督に進言出来るのだろう。こうして長沼が携わった作品には彼のアドバイスや発案によって生まれた名シーンは決して少なくない。


長沼 六男(ながぬま むつお 1945年-)MUTSUO NAGANUMA 長野県出身
 多摩芸術学園の最終学年1967年に日活で西村昭五郎監督作品『花を喰う虫』で初めて映画に関わった後、1968年に松竹大船撮影所入社。高羽哲夫、阪本典隆、両カメラマンの撮影助手として数多くの作品に参加。しばらくは二人に師事していたが、松竹を退社してフリーのプロデューサーをしていた馬道昭三に誘われてATG作品『新・人間失格』でカメラマンデビューする。その作品を観た松竹の佐藤正プロデューサーが才能を高く評価して前田陽一監督作『土佐の一本釣り』で松竹で一本立ちを果たす。その後、相米慎二、勝新太郎、佐藤純彌、佐々部清といった多くの監督作品に参加するが、高羽カメラマンから誘われて1993年『学校』から山田洋次監督組に参加。『男はつらいよ 寅次郎紅の花』を最後に急逝した高羽カメラマンに代わって山田組の撮影監督として『虹を掴む男』『たそがれ清兵衛』などを務める。『武士の一分』では日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞する。

主な代表作

昭和53年(1978)
新・人間失格

昭和55年(1980)
土佐の一本釣り
サッちゃんの四角い空

昭和56年(1981)
なんとなく、クリスタル

昭和57年(1982)
次郎長青春篇
 つっぱり清水港

昭和58年(1983)
喜劇 家族同盟
魚影の群れ
ふしぎな國・日本

昭和60年(1985)
キッズ
V・マドンナ大戦争
聖女伝説

昭和62年(1987)
光る女
青春かけおち篇

昭和63年(1988)
クレージーボーイズ

平成1年(1989)
座頭市

平成4年(1992)
おろしや国酔夢譚

平成5年(1993)
学校
夢の女
結婚

平成6年(1994)
雷電

平成7年(1995)
男はつらいよ
 寅次郎紅の花
時の輝き

平成8年(1996)
虹をつかむ男
学校II

平成9年(1997)
虹をつかむ男
 南国奮斗篇
男はつらいよ
 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇

平成10年(1998)
あ、春
学校III
てなもんや商社
 萬福貿易会社

平成12年(2000)
十五才 学校IV
釣りバカ日誌イレブン

平成13年(2001)
親分はイエス様

平成14年(2002)
たそがれ清兵衛

平成15年(2003)
油断大敵
半落ち

平成16年(2004)
隠し剣 鬼の爪

平成18年(2006)
武士の一分
不撓不屈

平成19年(2007)
母べえ

平成20年(2008)
築地魚河岸三代目

平成21年(2009)
沈まぬ太陽

平成22年(2010)
最後の忠臣蔵




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