昭和11年、東宝に入社した森繁久彌は、東宝新劇団に所属して俳優の道を歩むことになった。間に戦争を挟み、戦後の昭和22年、満州から家族と共に日本に戻ってきた森繁は、衣笠貞之助監督の『女優』で映画デビューを飾る。セリフも無いチョイ役であったが、ここから通算150本にも及ぶ森繁の映画人生の幕が上がったわけだ。この作品で、1本の映画を作るために監督の「用意、スタート!」が何百回と繰り返され、何時間も待たされる端役の辛さを味わったと、後に語っている。(『森繁自伝』より)以降、端役ながらも確実に出演本数を増やしていく。2作目の『腰抜け二刀流』から主役級で出演活躍の場は、東宝と新東宝で、いずれもコメディータッチの作品が多かった。しかし、まだ森繁本来の良さは発揮されていないものばかり。森繁の映画人生で転機となった作品が昭和27年春原政久監督によるサラリーマン喜劇『三等重役』ではなかろうか。それまで誰が演じても変わりばえがしなかった脇役ばかり演じていた森繁だが、本作で得た人事課長のキャラクターは間違いなく“社長シリーズ”に継承されていった。共演は森繁が尊敬する喜劇役者・河村梁吉で次回作『続三等重役』でも同じ役で出演している。森繁は、その年15本もの作品に出演、ますます人気に拍車をかけていく。

 そして、その翌年の昭和28年、森繁人気を決定付ける作品に出会う事になる。名匠・マキノ雅弘監督作『次郎長三国志』シリーズの森の石松役だ。(ここでは勿論、森繁のトレードマークであるチョビ髭は存在しない)全9作中7作に出演した森繁は回を追う毎に人気が高まり、道を歩いていても「石松!」と声をかけられる程のハマり役を獲得(ただ本人は役名で呼ばれるのをかなり嫌っていたらしいのだが…)したのだ。初登場となったシリーズ2作目『次郎長初旅』では終盤に森繁の石松が出てくる。ひどいどもりなのだが一端、啖呵を切ると流暢に喋り出す…たった数分の出演シーンであるにも関わらず、そこから映画の雰囲気は確実に変わってくる。続く3作目『次郎長と石松』では、タイトルが示す通り森繁石松が活躍する実に楽しい作品となる。石松最期の『東海一の暴れん坊』に至っては事実上、森繁単独の主演作であり、シリーズ最高の出来となった。敵に囲まれながらも「俺は死ねねぇんだよ」と笑みを携えながら斬られる“森繁の石松”は、最高にカッコ良かった。ちなみに、マキノ監督が日活で製作した『次郎長外伝 秋葉の火祭り』(東宝の『次郎長三国志』とは全くの別物である)でも、森の石松を演じている。昭和30年、森繁は遂に、彼の生涯における代表作を得る事となる。豊田四郎監督作『夫婦善哉』だ。本作は、芸術祭に参加して“文部大臣賞”を受賞する。この年から文芸作品が多くなる森繁…世間の見る目も明らかに変わってきたのもこの頃からだ。脇役の頃は、いかがわしさだけが際立ったペテン師のような役が多かったものの再びマキノ雅弘監督と組んだ名作『人生とんぼ返り』の“芸のためなら女房を泣かす”男の役を観ていると、脇役時代は決して無駄ではなかったと思う。そして、偶然にも『夫婦善哉』のクランクインの遅れから出演した久松静児監督『警察日記』で人情味溢れる田舎の警官を演じ大ヒットを記録。順調に『夫婦善哉』が撮影していたら、この名作は生まれなかったかも知れない。人情喜劇に限らず社会派のシリアスドラマ『神阪四郎の犯罪』や『森繁よ何処へ行く』が封切られる等、昭和30年代に発表されたこれらの作品によって、単なる喜劇俳優ではない事を世に知らしめた。

 森繁は、後にマキノ監督と豊田監督について、こう語っている。「マキノ監督は、私の活動写真のお師匠さんです。この方から映画のコツを盗むだけ盗んだ」…『次郎長三国志 東海一の暴れん坊』のクライマックスでマキノ監督が的確な立ち回りの演出をつけて、それが見事に決まった事を感心していた。その立ち回りをつける殺陣(タテ)師を題材としたのが『人生とんぼ返り』。森繁は、この中で主人公・殺陣師・段平の役を演じる。次郎長シリーズで、さんざんマキノ監督の演出を見てきた森繁だからこそ、殺陣師の身のこなしを完璧に表現できたのだろう。そして、『夫婦善哉』で初めて顔を合わせた豊田四郎監督については、突然渋谷の料亭に呼び出されて「織田作之助の小説を映画化して映画界に新風を巻き起こしてやろう」と話を持ちかけられたのがキッカケでその後、駅前シリーズ等…数多くの作品でコンビを組む事となる。翌年、豊田監督とコンビを組んだ『猫と庄造と二人のをんな』も忘れられない名作のひとつ。飼い猫リリーを愛する男を中心に、母、先妻、後妻が繰り広げる谷崎潤一郎原作の愛憎喜劇だ。森繁の演技以上に、試写を観に来た谷崎が猫の演技を褒めていたという。しかし、その猫の演技を引き出したのは、紛れもない森繁の臨機応変な演技力があったからだというのは一目瞭然。機会があれば是非、この作品も取り上げたいと思う。以降、森繁は“駅前シリーズ”、“社長シリーズ”と2つのドル箱シリーズを有し東宝喜劇の看板スターとなるのだが、それは次回に紹介させていただく。


 森の石松(生年月日不明 - 1860年7月18日“万延元年6月1日”)は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客。出身地は三州半原村(後の愛知県新城市富岡)とも遠州森町村(後の静岡県周智郡森町)とも伝えられるが定かでない。浪曲では「福田屋という宿屋の倅」ということになっている。森の石松の「森」とは森町村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森町村で育ったという。なお、現在語り継がれている石松は、清水の次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。
 孤児となった石松は侠客の森の五郎に拾われて育てられた。侠客同士の喧嘩から上州(後の群馬県)で人を斬り、次郎長に匿われて その子分となった。酒飲みの荒くれだが義理人情に厚く、どこか間が抜けており、温泉地の賭場で いんちきサイコロを使って100両儲けたと思ったら翌日以降300両負けて次郎長の湯治費を丸ごとスッてしまい、仲間から「馬鹿は死ななきゃ直らない」とからかわれた、といった愛すべきキャラクターとして講談や浪花節(浪曲)にも数多く登場する。病で妻に先立たれたばかりの次郎長と共に宿敵を討ち果たし、親分の御礼参りの代参で金刀比羅宮へ出掛けた帰路、方々から預かっていた次郎長への香典を狙った侠客の都田の吉兵衛(都田は後の静岡県浜松市北区都田。講談や浪花節では「都鳥」とされる)に、遠州中郡(後の静岡県浜松市浜北区小松と思われる)にて騙し討ちに遭い、斬られて死亡した。吉兵衛は翌1861年(万延2年)、次郎長によって討ち果たされる。
 石松のことを伝える史料の代表格は、一時期次郎長の養子であった天田五郎(ペンネーム:山本鐵眉。後に出家し天田愚庵と号した)が1884年(明治17年)に出版した『東海遊侠伝』であり、以降の中島儀市『明治水滸伝清水次郎長の伝』(1886年(明治19年)出版)や村松梢風(森町出身)が1920年(大正9年)頃 雑誌『騒人』に連載した「正伝清水次郎長」をはじめとする伝記の殆どのルーツと言ってよい。一方、講談や浪花節に描かれる石松や次郎長は、彼らの仲間であり後に旅講釈師となった清竜が講談師の三代目神田伯山に金銭と引き換えにネタとして提供したものが元であり、さらに浪曲師の二代目広沢虎造が伯山の講談を採録して脚色し浪花節とした。虎造の十八番の一つ「石松三十石舟」の中で石松が、たまたま舟に乗り合わせて石松の名と噂を懸命に思い出そうとしている旅人に「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ」と勧める有名な台詞は虎造の創作である。
 墓は静岡県周智郡森町にある大洞院(曹洞宗)のものが有名だが、他にも墓とされるものは複数ある(因みにやくざであるという理由から墓は寺の敷地内ではなく、門前に建てられている)。石松の墓石の欠片を持っているとギャンブルに強くなるという俗信があり、墓は何度も作り直されている。現在建っている物はアフリカ産の極めて硬い石材を使用している。
 森の石松のキャラクターは多くの人々に愛され、数多くの映画や舞台、テレビ等で描かれて来たが、断トツで森の石松を多く演じたのは他でもない、森繁久彌であった。
(Wikipediaより一部抜粋)


森繁 久彌(もりしげ ひさや) HISAYA MORISHIGE
1913年5月4日〜 大阪府枚方市蔵谷生まれ。 身長171cm 体重78kg
 旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て、後に実業家となった父・菅沼達吉と、大きな海産物問屋の娘であった母との間に出来た3人兄弟の末っ子。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし、久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も、色々と子細、経緯等があって、「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男は馬詰家を継ぎ、次男はそのまま菅沼家を継ぎ、3男・久彌は森繁家を継ぎ、名字も「森繁」となる。
 堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫と共に活躍。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となり、アマチュア劇団に加わり、築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演したりした。1936年、長兄の紹介で東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。その後は、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。1945年、敗戦を新京で迎え、ソビエト連邦軍に連行される等して苦労の末、1946年11月に帰国。
 戦後、劇団を渡り歩きながらも、1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年には再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけで無く、アドリブのギャグを混ぜて歌も唄う等、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣った『愉快な仲間』を放送。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇『三等重役』に要領の良い人事課長役で助演。本作は好評を博し、後に河村が急逝した事もあって、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに二枚目半の森の石松役で出演。1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった森繁の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じ、これも代表作の一つとなる。
 1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け、正式に卒業を認められた。近年は年齢・体力的な事もあり、2004年正月放送『向田邦子の恋文』を最後に俳優活動を行っていない。1990年代以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も、2004年1月の坂本朝一元NHK会長での弔辞を最後に行っていない。2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が発売。1991年に舞台用に録音されながらも、お蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」(声が弱っている事から、親交の深い竹脇無我が代読)も収録されている。
(Wikipediaより一部抜粋)


【参考文献】
銀幕の天才 森繁久彌

102頁 29.8 x 20.8cm ワイズ出版
山田 宏一/松林 宗恵【著】
各1,680円(税込)


【参考文献】
果てしなき道―森繁久彌映画遍歴

244頁 18.3×13cm ちはら書房
園崎 昌勝【著】


【参考文献】
森繁自伝

245頁 15 × 10.4cm 中央公論新社(改版版)
森繁久彌【著】

昭和22年(1947)
女優

昭和25年(1950)
腰抜け二刀流

昭和26年(1951)
有頂天時代
海賊船

昭和27年(1952)
上海帰りのリル
浮雲日記
チャッカリ夫人と
 ウッカリ夫人
続三等重役

昭和28年(1953)
次郎長三国志 第二部
 次郎長初旅
凸凹太閤記
もぐら横丁
次郎長三国志 第三部
 次郎長と石松
次郎長三国志 第四部
 勢揃い清水港
坊っちゃん
次郎長三国志 第五部
 殴込み甲州路
次郎長三国志 第六部
 旅がらす次郎長一家  

昭和29年(1954)
次郎長三国志 第七部
 初祝い清水港
坊ちゃん社員
次郎長三国志 第八部
 海道一の暴れん坊

魔子恐るべし

昭和30年(1955)
スラバヤ殿下
警察日記
次郎長遊侠伝
 秋葉の火祭り
森繁のやりくり社員
夫婦善哉
人生とんぼ返り

昭和31年(1956)
へそくり社長
森繁の新婚旅行
花嫁会議
神阪四郎の犯罪
森繁よ何処へ行く
はりきり社長
猫と庄造と
 二人のをんな

昭和32年(1957)
雨情
雪国
山鳩
裸の町
気違い部落

昭和33年(1958)
社長三代記
続社長三代記
暖簾
喜劇 駅前旅館
白蛇伝
野良猫
人生劇場 青春篇

昭和34年(1959)
社長太平記
グラマ島の誘惑
花のれん
続・社長太平記
狐と狸
新・三等重役

昭和35年(1960)
珍品堂主人
路傍の石
サラリーマン忠臣蔵
地の涯に生きるもの

昭和36年(1961)
社長道中記
喜劇 駅前団地
小早川家の秋
喜劇 駅前弁当

昭和37年(1962)
サラリーマン清水港
如何なる星の下に
社長洋行記
喜劇 駅前温泉
喜劇 駅前飯店

昭和38年(1963)
社長漫遊記
喜劇 とんかつ一代
社長外遊記
台所太平記
喜劇 駅前茶釜

昭和39年(1964)
新・夫婦善哉
社長紳士録
われ一粒の麦なれど

昭和40年(1965)
社長忍法帖
喜劇 駅前金融
大冒険

昭和41年(1966)
社長行状記
喜劇 駅前漫画

昭和42年(1967)
社長千一夜
喜劇 駅前百年

昭和43年(1968)
社長繁盛記
喜劇 駅前開運

昭和45年(1970)
社長学ABC

昭和46年(1971)
男はつらいよ 純情篇

昭和47年(1972)
座頭市御用旅

昭和48年(1973)
恍惚の人

昭和56年(1981)
連合艦隊

昭和57年(1982)
海峡

昭和58年(1983)
小説吉田学校

平成16年(2004)
死に花




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