「叩き上げ」久松静児監督を語る時、頭に浮かぶ単語がそれである。約20年近く、スリラーやメロドラマ等、数多くのB級プログラムピクチャーを作り続けてきた職人監督。20年…コツコツと万人に受け入れられる(もしくは、映画会社が安心できる商業主義)作品を作り続けるというのは、映画を作る事が好きだったから…という理由以外に他ならないと思う。自己を前面に出すよりも原作に忠実に描き、問題定義する場面でも、決して声高かにメッセージを発する事はしない。だから、久松監督の作品は、良く言えば安心して観ていられる。だからだろうか?現代人のエゴイズムを痛烈に批判した内容の法廷映画『神阪四郎の犯罪』ですら、人間の本質を暴く形にしていながら、明確な結論を出さずに終わらせている。ちなみに本作は、森繁のお気に入りの1本。様々な人間のエゴを浮き彫りにした問題作である以上に、森繁が持つ全ての演技を引き出した作品であるわけだから無理はない。
 久松監督の名が一躍有名になったのは、不朽の名作『警察日記』だ。雄大な会津磐梯山をバックに田舎町で繰り広げられる庶民と人情警官たちの姿をいくつかのエピソードで描いている『警察日記』は、久松監督らしい題材だったのではないだろうか。庶民の暮らしを描くのが得意な久松監督は『駅前団地』で、日本の新しい生活スタイルである団地を舞台に住人たちの悲喜こもごもを等身大で描いていた。久松監督がメガホンを取った駅前シリーズは、どれもが庶民の生活に笑いとペーソスを交えていた。久松監督とは長年コンビを組み最も多くの作品を残した森繁と初顔合わせとなった本作で、既に森繁の良さを引き出していた。「この人の特徴は、図々しいくせにシャイで、すぐに顔を赤らめる癖がある」と、森繁は語っているが、当時はそんな職人的な監督が多かったのではなかろうか?「森繁君!小芝居はやめて、もっと香を出して、いいね」とクランクアップまで何回も森繁に言ったという久松監督。
(並木座パンフレットより)最後には、森繁は台本をしまって芝居を始めた…それが自然な演技につながったのだとしたら、やはり久松監督は匠の技を持った職人である。また、子供を撮る名人だったという久松監督が『警察日記』で3才の二木てるみに何と「上手にやらなきゃ、今夜ご飯をあげないよ」とワザと脅かし、その間カメラを回し続けて、最高の泣き顔を収めてしまう。酷いと言われるかも知れないが、いい映画を作るためならそこまでやった。まぁ、その名演技があったおかげで彼女の泣き顔に多くの観客が涙して、彼女もその後、長きに渡って第一線で女優として活躍出来ているのだ。
 最後に、森繁が出演した監督とのコンビで忘れてはいけないのが冬のオホーツクで撮影した『地の涯に生きるもの』だ。森繁プロダクションを立ち上げて初めての作品。ラストで氷塊から落ちて死ぬシーンで久松監督は森繁をスタジオのプールに4メートルの雪の上から実際に落ちる指示を出したという。「主役兼プロデューサーは、この監督に遂に命まで取られるのか」と、思ったそうだ。ちなみに、森繁のヒット曲“知床旅情”が生まれたきっかけとなった(撮影の合間に口ずさみながら作った地元の人々との思い出の歌なのだ)のがこの作品なのだ。
 身近にある庶民を描き続け、その中から小さなドラマを見つける久松監督。会社の要望通りの無難なプログラムピクチャーを専門としていた職業監督が、息子から言われた一言から奮起して、職人監督へと変わった。「1本も決定打が打てない」…代表作がない…この言葉の重みを常に背負いこんだからこそ、鮮やかな転身を成し遂げたのであろう。勿論、その後も娯楽に徹した作品を多く作り上げたが、いつでも久松監督の視線は低く、庶民と同じレベルで生活を見続けていた。
 久松静児に関する文献は少なく、自伝ともなる書物は残されていないのだが、今は亡き映画館“並木座”のパンフレットの中に「井出脚色・久松監督研究週間」と題して『警察日記』や『おふくろ』でコンビを組んだ脚本家・井出俊郎が久松監督について忌憚の無い感想を述べている興味深い記事が掲載されていたので、ここに抜粋して紹介したい。初めて二人が顔を合わせたのは大映作品『秘密』の時だった。「その時は、シナリオに対して別に対した意見も言わないし、何だか頼りない人だなぁ」と思ったらしい。実際に完成した映画を観ても殆どシナリオに忠実で、評判も良かった…ということでまずまずのスタートを切ったのだが、問題は次に二人がコンビを組んだ作品『女の暦』だ。「これには私、少々文句がありました。シナリオも所々変わっているし、私が最もデリケートに描いて欲しかった杉葉子と細川俊夫の恋愛が全然ほったらかしになっている。ムカムカッとしましたけどね、黙っていたんです」と、まだ遠慮もあった事も手伝ってその場は収めたものの、次回作『警察日記』で溜まりに貯まっていた思いが爆発する事になる。「あちこち気に入らないところだらけ。あれでは、“森繁のお巡りさん”みたいなもの…始めから仏様然として現れて、他の巡査たちも、非人情的な部分…仕事と生活に疲れてやや不機嫌な巡査たちとして描いて欲しかった」と思ったという。ところが、彼の友人が映画を観に行ったところ「あんたが気に入らないと言っていたところが、みんなお客さんに受けていたよ。あんたの言った通りにしたら、あの映画きっとあんなに当たらなかったね」と言われたのだった。とは言うものの、今回で3度目となる無断のシナリオ改訂に、久松監督に喰ってかかったところ、神妙な面持ちで「あなたの言う通りだ」と素直に謝罪される。逆に悪く感じてしまい、次回作『おふくろ』に多いに期待したところ…以前と同じように散々井出氏が言っていた描写が、またもや平然とおこなわれていたのだった。こうなれば、余程の大物なのかそれとも鈍感なのか…?遂には井出氏は根負けして、4本目ともなると情が湧いて来て何も言えなくなってしまったという。
(並木座パンフレットより)


久松 静児(ひさまつ せいじ)SEIJI HISAMATSU
明治45年2月20日茨城県生まれ-平成2年2月28日没
茨城県新治郡栄村の農家に生まれる。土浦の常総中学から東京の第一外語学校英語科、飛行学校等をいずれも中退、昭和4年に河合映画巣鴨撮影所に入る。帝キネ長瀬撮影所、新興キネマで助監督を務め、昭和9年に新興京都で監督になる。戦後には、年に4本のペースでB級サスペンスやスリラー映画を多作し、新興キネマが大映に吸収されてから大映で、メロドラマからミステリーに至るまで様々な商業主義の娯楽作品を多発する。ある日、高校生の長男から「1本も決定打が打てない」と代表作が無い事を批判されてショックを受け、方向転換を志す。その後、森繁久彌と初コンビを組み大ヒットを記録する『警察日記』を始め、『神阪四郎の犯罪』、駅前シリーズ等、数多く森繁主演作品を送り出す。中でも冬のオホーツクで長期ロケーションを敢行した森繁プロの第一回作品『地の涯に生きるもの』は大ヒットまでは行かなかったが、力強い自然の中で生きる一人の男の人生を淡々と追い続けた秀作として話題となった。
(Wikipediaより一部抜粋)



【参考文献】
日本映画の巨匠たち〈2〉

441頁 20.4×14.8cm 学陽書房
佐藤 忠男【著】
3,990円(税込)

主な代表作

昭和9年(1934)
暁の合唱

昭和21年(1946)
夜光る顔
盗まれかけた音楽会

昭和22年(1947)
蝶々失踪事件

昭和23年(1948)
新愛染かつら

昭和24年(1949)
花の日月
母燈台

昭和25年(1950)
氷柱の美女
拳銃の前に立つ母
美貌の海

昭和26年(1951)
泥にまみれて
霧の夜の恐怖

昭和27年(1952)
安宅家の人々
秘密

昭和28年(1953)
妖精は花の匂いがする
地の果てまで
十代の誘惑

昭和29年(1954)
放浪記
女の暦
母の初恋

昭和30年(1955)
警察日記
おふくろ
渡り鳥いつ帰る
月夜の傘
続警察日記

昭和31年(1956)
神阪四郎の犯罪
雑居家族
女囚と共に

昭和32年(1957)
雨情
裸の町

昭和33年(1958)
怒りの孤島  日映
母三人
つづり方兄妹
愛妻記

昭和34年(1959)
愛の鐘
路傍の石

昭和35年(1960)
地の涯に生きるもの

昭和36年(1961)
女家族
喜劇 駅前団地
南の島に雪が降る
喜劇 駅前弁当

昭和37年(1962)
愛のうず潮
喜劇 駅前温泉
早乙女家の娘たち
喜劇 駅前飯店

昭和38年(1963)
クレージー作戦
 先手必勝
喜劇 駅前茶釜
わんぱく天使
丼池

昭和39年(1964)
僕はボディガード
沙羅の門
花のお江戸の法界坊




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