映画産業が斜陽化の時代―映画館が次々と閉館、またはボーリング場に改築されていた昭和40年代。日本人の“映画館離れ”と“日本映画離れ”(ハリウッド映画は盛況だった)によって、メジャー各社は苦しい状況に追い込まれていた。にも関わらず、ひときわパワフルに映画を生産し続けていたのが、東映だった。時代劇、任侠もの、戦争もの等…芸術性よりも娯楽性を重視した東映のラインナップは常に分かり易く、誰もが楽しめる内容になっており、幅広い層(特に子供と男性)に支持されていた。しかし、他社が文芸路線を中心としていたのに対し、こうした娯楽映画の二本立、三本立興行に徹していた東映作品は“お子様ランチ”と呼ばれ、大手五社の中では、格下に見られていた。更に勢いづいている東映が、そのラインナップにポルノ映画を加えた事はメジャー5社を驚かせるのに充分だった(日活がポルノ路線に変更していない)。当時、ポルノ映画は小さな独立プロダクションの下世話な映画と蔑まれていたのだが、大会社が一般作品と平行して女の裸を売りにした作品を作る事に、社内のスタッフは勿論、東映専属の俳優たちも難色を示し、助監督らは抗議声明をマスコミに流した。問題のポルノ参入を仕掛けたのが、当時の撮影所長で後に東映の社長にまで登りつめる岡田茂その人である。昭和42年の暮れに天尾完次プロデューサーを呼び「おい!何もピンク映画だけに儲けさせる事はないぞ。こっちには時代劇の衣装があるじゃないか。大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう!」という一声から全てが始まった。
 昭和22年10月、東京帝国大学経済学部を卒業した岡田茂はプロデューサーマキノ光雄に誘われて、東横映画(現在の東映)に入社。京都撮影所・製作部に配属され、マキノ正博監督の進行係を務めていた。翌年、主任に昇格した岡田は『きけわだつみのこえ』を初プロデュースし見事、大ヒットを記録する。昭和26年経営不振に陥った東横映画は東京映画配給、大泉映画の2社と合併、東映が発足された。ところが昭和26年に時代劇が解禁されてからというもの東映の勢いは止まるところを知らず、昭和31年には業界トップを独走。直営館は52館に達するまでになった。岡田は松竹から美空ひばりを引っ張り、新人の中村錦之助をスターに押し上げる等、彼の力無くしては東映の隆盛は有り得なかったであろう。
 昭和35年には“第二東映”を発足させ、両社合わせて150本以上の量産体制に入っていた東映京都・東京撮影所は日々大混乱であった。製作課長であった岡田茂は、神懸かり的な進行管理で現場を束ねていたのである。たとえ、雨や雷の悪天候でもスケジュール優先(大物監督や俳優相手でも…)で、強引に撮影を決行させていた。しかし、岡田茂が本領を発揮するのが、この第二東映(後にニュー東映と改名)であった。次第に日本映画界にも陰りが見え始め、無理な映画増産に転じた東映も人件費など製作費の高騰から苦しい状況に追い込まれていた。そんな真っ只中にある昭和36年、岡田は赤字の元凶である東京撮影所長に就任する。岡田は着任の挨拶で「どんな映画を作っても当たらない。日本で最低の撮影所だ。私が来たからには大改革をして日本一の撮影所にしたい」と煽り「皆で同じ夢を見よう」と促した。岡田は全監督5作品を見て使えない監督を辞めさせる強行手段に出た。代わりに、潰れた新東宝から実力のある深作欣時二や石井輝男らを招く。どんな大御所にも臆する事ない岡田は、大ヒットとなった『大奥(秘)物語』の企画段階でもシナリオ協会の会長でもある脚本家・八木保太郎の脚本にダメ出しをして、書き直させるも、「直すところがない」と主張する八木をその場で解雇。監督だった今井正も降板させて、中島貞夫を起用。脚本は3人のライターに5日間で書かせるという強行手段を取ったのだ。強引とも言えなくはない行動力で東京撮影所を起動に乗せた頃、岡田に京都撮影所長に戻れという辞令が下った。理由は、京都撮影所の再建。そこから東映ピンク路線が始まるわけである。
 ピンク映画の第一作、鈴木則文監督『忍びの卍』の製作は、それまでピンク映画の経験が無かった東映にとって苦労の連続だった。裸になる女優がいなかったため、京都のストリップ小屋を回ってストリッパーを探してきたものの容姿に問題があり過ぎて使えなかったという冗談のようなエピソードが残っている。その失敗を活かして、次に製作した『徳川女系図』ではピンク映画の女優たちに大々的に呼びかけを行った。結果、女優たちは、東映の名に惹かれて売れっ子がこぞって集まってきた。かくして、石井輝男監督による『徳川女系図』は俗悪エログロ映画として様々なバッシングを受けつつも興行的に大ヒットを記録。映画評論家の佐藤忠男は、東映のピンク映画を「愚劣」と“キネマ旬報”に批判記事を掲載。ところが、世間の風潮と観客動員数は反比例し、次に来る東映ポルノ路線への準備は整いつつあった。岡田のモットーは、「一言でセールスポイントを語れない映画は売れない」だ。だからこそ、彼が企画する映画は、分かりやすい。たとえ奇想天外、多少つじつまが合わなくても分かりやすさ故に東映の客層にはウケるのだ。岡田は“お子様ランチ”に集まる観客をちゃんと理解した上で、背伸びしない作品を贈り続けたのだ。その後『温泉あんま芸者』のヒットに本格的な芸者もののピンク映画の企画に乗り出した岡田は、鈴木監督による『温泉タコ壺芸者』に着手。ところが、主役の新人女優を探していた鈴木監督にタイトル変更の指示が飛ぶ。“タコ壺芸者”では客が入らない…っという事から『温泉みみず芸者』に決定。「海の近くで、しかもみみずなんて出てこないのに…」という鈴木監督の抵抗も虚しく、以降、岡田茂の突拍子の無い奇抜でアナーキーなタイトル命名は拍車を掛けていく。ところが、ピンク路線が下火になるとアッサリ手を引く冷徹さを持ち合わせた岡田茂は、根っからの映画人であった


岡田 茂(おかだ しげる) 1924年3月2日 広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。
東映株式会社相談役、東急レクリエーション相談役、映画産業団体連合会会長を務める。
昭和22年東京帝国大学経済学部を卒業後、東横映画株式会社に入社。雑用係からキャリアをスタート。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたお笠は当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。昭和23年、進行主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。マキノの助け舟もあって昭和25年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て大ヒットする。昭和26年、入社4年目にして、27歳で京都撮影所製作課長と従業員組合委員長に抜擢される。
当時のNHKのラジオドラマで人気だった新諸国物語の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の「笛吹童子」シリーズ、東千代之介主演の「里見八犬伝」シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画の出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出し、遂に昭和31年には年間配給収入でトップとなった。アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし昭和32年、他社に先駆け“東映スコープ”『鳳城の花嫁』を公開。昭和37年取締役東京撮影所長に就任すると低迷していた東映現代劇をアクション路線で復活させ、その後“時代劇”路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画路線に転換させる。
昭和39年、時代劇の衰退した京都撮影所長に再び戻り、大リストラを断行し2100人の人員を一気に900人に減らした。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行。時代劇はテレビで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任する。昭和42年常務、昭和43年映画本部長、昭和46年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。同年8月大川博社長が逝去。子息から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ社長に就任し、さらに東映動画(現・東映アニメーション)会長を兼任することとなる。昭和45年以降『仁義なき戦い』を初めとする“実録路線”や、天尾完次プロデューサーと共に“ポルノ映画”を製作。批評家から批判を浴びながらも『徳川女系図』は大ヒットを記録する。その後も数々の作品をプロデュースし続け、平成5年に会長に就任。日本映画界に多大な功績を残してきた。
(Wikipediaより一部抜粋)



【参考文献】
波瀾万丈の映画人生―岡田茂自伝

237頁 19× 13.4cm 角川書店
岡田 茂【著】
各1,785円(税込)


【参考文献】
悔いなきわが映画人生―東映と共に歩んだ50年

465頁 21.2 ×14.4cm 財界研究所
岡田 茂【著】
各1,890円(税込)


【参考文献】
映画三国志

312頁 19× 13.4cm 徳間書店
大下英治【著】

主な代表作

昭和25年(1950)
日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声

昭和31年(1956)
赤穂浪士
 天の巻 地の巻

昭和37年(1962)
ギャング対Gメン

昭和38年(1963)
暗黒街の顔役
 十一人のギャング
ギャング対Gメン
 集団金庫破り
人生劇場 飛車角
人生劇場 続飛車角
親分を倒せ
暗黒街最大の決闘
暴力団

昭和39年(1964)
東京ギャング対
 香港ギャング
地獄命令
人生劇場 新・飛車角
二匹の牝犬
博徒
監獄博徒
幕末残酷物語
博徒対テキ屋

昭和40年(1965)
徳川家康
冷飯とおさんとちゃん
宮本武蔵
 巌流島の決斗
隠密侍危機一発

昭和41年(1966)
小判鮫 お役者仁義
のれん一代 女侠
悪童
骨までしゃぶる
冒険大活劇
 黄金の盗賊
怪竜大決戦

昭和42年(1967)
あゝ同期の桜
日本暗黒史 血の抗争
大奥(秘)物語
銭形平次
続大奥(秘)物語
十一人の侍

昭和43年(1968)
人間魚雷
 あゝ回天特別攻撃隊
日本暗黒史 情無用
尼寺(秘)物語
徳川女系図
産業スパイ
温泉あんま芸者
怪猫呪いの沼
徳川女刑罰史
妖艶毒婦伝
 般若のお百
大奥絵巻

昭和44年(1969)
残酷異常虐待物語
 元禄女系図
にっぽん’69
 セックス猟奇地帯
異常性愛記録
 ハレンチ
徳川いれずみ師
 責め地獄
おんな侠客卍
やくざ刑罰史 私刑
温泉ポン引女中
明治大正昭和
 猟奇女犯罪史
江戸川乱歩全集
 恐怖奇形人間

昭和45年(1970)
殺し屋人別帳
監獄人別帳
三匹の牝蜂
温泉こんにゃく芸者
喜劇ギャンブル必勝法
(秘)女子大寮

昭和46年(1971)
驚異のドキュメント
 日本浴場物語
すいばれ一家
 男になりたい
温泉みみず芸者
喜劇トルコ風呂
 王将戦
セックスドキュメント
性倒錯の世界
女番長ブルース
 牝蜂の逆襲

昭和47年(1972)
関東緋桜一家

昭和49年(1974)
あゝ決戦航空隊

昭和52年(1977)
やくざ戦争
 日本の首領

昭和53年(1978)
燃える秋

昭和55年(1980)
甦れ魔女

平成2年(1990)
オーロラの下で

平成3年(1991)
動天




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