静かな生活
人は皆、支え合って生きていくものなのです。
1995年 カラー ビスタビジョン 121min 伊丹プロダクション
製作 玉置泰 プロデューサー 細越省吾、川崎隆 監督、脚色 伊丹十三 撮影 前田米造
音楽 大江光 美術 川口直次 録音 小野寺修 照明 加藤松作 編集 鈴木晄 原作 大江健三郎
出演 山崎努、柴田美保子、渡部篤郎、佐伯日菜子、今井雅之、緒川たまき、岡村喬生、宮本信子
大森嘉之、、左時枝、渡辺哲、柴田理恵、高橋長英、岡本信人、原ひさ、結城美栄子、柳生博
両親の渡航中に起こる障害者の兄と妹の、波乱に富んだ日常を描いたドラマ。原作は、94年ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の同名の長篇。監督は大江の義兄である伊丹十三が『大病人』以来2年ぶりにメガホンを取った。高校時代に級友であった大江の同名小説の内容に惹かれた伊丹監督が脚本も手掛けている珍しい原作物の映画化。大江健三郎の実子である主人公イーヨーの持つキャラクター(音楽家として活躍されている大江光)、妹マーちゃんの誠実な人柄に映画の素材として興味を抱いた伊丹監督が難解な大江文学に挑む。また大江の実子・光の作曲した曲を使用したのも話題になった。撮影は数々の伊丹映画をフレームに収めてきた前田米造が透明感溢れる自然光の映像を作り上げている。「この映画を通じて若い人に真剣に生きる事のカッコ良さを知ってもらいたい」というのが本作における伊丹監督のテーマとなっている。主演は『毎日が夏休み』で数々の新人賞に輝いた佐伯日菜子と、『復讐の帝王』の渡部篤郎。その年の日本アカデミー賞では渡部篤郎が新人俳優賞を受賞。撮影現場を訪れた光氏が渡部篤郎の演技に「これは僕ですね」と喜びの表情を見せたほど渡部の演技は卓越した光を放っていた。本作では、伊丹映画の常連の俳優陣は脇に回って主演の二人を盛り上げている。この映画は興行的には失敗してしまい伊丹監督は「(前年の大江のノーベル文学賞受賞は)本や光の音楽が売れる要因であっても、映画がウケる要因ではなかった」と分析している。
絵本作家を目指すマーちゃん(佐伯日菜子)の家族は、作家であるパパ(山崎努)と優しく家族を束ねるママ(柴田美保子)、大学入試を控えた弟のオーちゃん、そして音楽の才に恵まれながら障害者である兄のイーヨー(渡部篤郎)の五人。ある年、家の下水を直そうとして失敗したパパは、家長としての威厳がないというプレッシャーに耐え切れず、おりから招かれていたオーストラリアの大学へ講師としてママと出向くことになった。留守を引き受けたマーちゃんは、イーヨーたちの面倒をみるのだが、痴漢事件やポーランド大使への意見運動、イーヨーの作曲した“捨て子”という曲騒動などが起こっててんやわんや。なかでもイーヨーの水泳レッスンにまつわる事件は、忘れ難いものとなってしまう。パパたちの出発後、マーちゃんはイーヨーを連れてプールに通うことになるのだが、そこでパパの昔の知り合いだという新井君(今井雅之)が、イーヨーのコーチを買って出てくれるのであった。新井君の指導は良く、イーヨーの水泳の腕はあがる一方。さらには、イーヨーに彼の大好きなテレビの天気予報のお姉さんまで紹介してくれ、彼にすっかり気を許す。ところがパパやパパの友人の団藤さんたちから、新井君の暗い過去を聞かされたマーちゃんは、誰もいないところで新井君に会わないよう忠告を受けた。しかし、それが新井君の気に障り、団藤さんが大怪我をさせられたばかりか、純情なマーちゃんまで暴行を受けそうになる。だが、マーちゃんの純潔を汚そうとする新井君にイーヨーが飛びかかり、マーちゃんを守り切るのだった。パパの精神状態も安定した頃、そんな事件の数々を綴ったマーちゃんの絵日記に、イーヨーは「静かな生活」というタイトルをつけるのだった。
伊丹十三監督の処女作『お葬式』を思い出してしまった。いつもの伊丹映画には珍しく大江健三郎の小説を映画化した本作は『静かな生活』というタイトル通り、静かに時が流れていく様にゆっくりと物語は進んでゆく。両親が仕事で海外に行ってしまう留守中、家を守ろうと頑張る長女の物語で、知的障害の兄の面倒を見ながら過剰に心配し過ぎて、空回りするのが何とも愛らしい奮戦記である。今までの『マルサの女』や『ミンボーの女』で伊丹映画に慣れ親しんだファンにとって、本作を観るとかなり違和感を覚えるに違いない。『タンポポ』以降、伊丹映画には常に一人のヒロイックな主人公が存在していた。困った母子を救ってラーメン屋を再建させたり、裏で悪の限りを尽くす人間たちを法の下でこらしめたり…。しかし、本作の主人公は渡部篤郎(本作は渡部篤郎という天才俳優がいたからこそ成り立ったのだ)演じるイーヨーという知的障害を持つ青年と、いつもイーヨーを心配し、付かず離れず世話をする佐伯日菜子演じる妹のマーちゃんだ。二人を主軸にして、いくつかのエピソードを織り交ぜながら、ちょっとした怖い事が起こったりしながら、ホンワカした感じで物語は進む。多分、観終わった後に『お葬式』を思い出したのは全編を包むゆったりとした雰囲気が似ているからだろう。
主人公・イーヨーは大江健三郎の実子であり、一度テレビで拝見したが、彼の奏でるピアノは透明感があって実に美しかった。勿論、本作でも彼が曲を思い浮かべ、作曲する過程が丹念に描かれているのが興味深い。イーヨーは曲を作るために作曲するのではなく何か思い立ったままに曲を創り上げる事が本作を観るとよくわかる。だから彼の心境がそのまま曲調にしっかりと反映されるのだ。現代人は、誰もが平均化してしまい全体的に理屈で物を考える傾向にある。正直、本作のイーヨーを観た時ショックであった。自分の感情をストレートに表現する事を恥ずかしいと思うようになった自分自身が、その裏側に垣間見えたからだ。劇中、近所で起きた幼女いたずら事件を知ったマーちゃんが、イーヨーではないかと心配するエピソードがある。本当は違うのだが、イーヨーが他人の家を覗いているのを見て疑ってしまったのだ。しかし、イーヨーが覗いていたと思ったのは、実はその家から流れるモーツァルト…。ここに肉親ですら、彼を違う目で見ていたという現実がある。しかし、伊丹監督は、そこに問題を定義しない。何故なら、そうした心配や不安や疑心暗鬼はマーちゃんたち家族にとって日常茶飯事だからであろう。これに対してショックを覚えるのは、たまにしか接する事がない大半の人間だけだ。常にイーヨーの視線の先には興味のある物しかないのだがマーちゃんは力づくでそれを制するシーンが何度も出てくる。彼女にとって、それが余所様に迷惑を掛けない確実な手段なのだ。言葉は悪いかも知れないが、子供のままのイーヨーと妙なところでしっかりせざるを得なくなったマーちゃんの温度差が本作の面白いところなのだ。しかし、マーちゃんが男に乱暴されかけたところで、イーヨーがその男の首を絞めて彼女を守るのシーンがある。実はイーヨーもマーちゃんを見守っていたわけだ。雨の中、抱き合う二人は感動的だ。伊丹監督はこの手の映画に有りがちなテーマ性を全て排除して一級のエンターテイメントを作り上げてしまった。
「何でも無い人として生きていれば死ぬ際にも余裕を持ってゼロに帰れると思うの」イーヨを見ながら宮本信子が淡々と言うセリフ。この映画の描きたいテーマがこのセリフに集約されていると思う。
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