我が国が誇る、最高のミステリー作家・横溝正史。探偵小説家としては戦前の江戸川乱歩に対して戦後の巨匠と言っても過言ではないだろう。横溝が発表した金田一耕助が登場する作品は、長短編併せて77作といわれている。彼が創作した探偵・金田一耕助は乱歩の明智小五郎と匹敵する日本の名探偵である。金田一は主に東京周辺を舞台とする事件と、作者の疎開先であった岡山など地方を舞台にした事件で活躍した。前者には戦後都会の退廃や倒錯的な性、後者には田舎の因習や血縁の因縁を軸としたものが多い。横溝が疎開先の岡山で実際に執筆した長編小説“本陣殺人事件”は、正に田舎の因習から起こる悲劇と惨劇を描いた金田一シリーズの第一作目に当たる。特徴としては、すべて犯人が知己に富んだ論理とトリックによって犯罪を起こす本格推理小説だ。戦後間もなく、帰京した後、昭和24年には“八つ墓村”を、翌年には“犬神家の一族”の連載を始め、この頃が一番乗りに乗っていた時期と言っても良いだろう。彼が創作した探偵役は他に、由利麟太郎(坂口安吾に世界的レベルの傑作と激賞された終戦直後の純謎解き長編“蝶々殺人事件”が特に有名)と三津木俊助。捕物帖には人形佐七、お役者文七を主役とするシリーズがある。探偵もの以外では、戦前に発表された“鬼火”“蔵の中”“かいやぐら物語”などの耽美的中短編など古き日本のオドロオドロしたムードの漂う作品が多い。
横溝正史ほど自作の映画化に興味を持っていた作家はいないと思う。作品が発表されて早々に東横映画(現在の東映)で片岡千恵蔵主演の『三本指の男』が公開された時の思いをATGでリメイクした『本陣殺人事件』のパンフレットに、こんなコメントを寄せている。「主人公の金田一耕助は当時の人気スター片岡千恵蔵さんであった。(中略)おかげで私の金田一耕助くんは、すっかり虚名を博したものだが、原作者の私はそのたびにお尻がムズムズするような面映さを感じずにはいられなかった。」と、原作に描かれている金田一があまりにもヒロイックな名探偵としてスクリーンで活躍するのが恥ずかしかったようだ。しばらく作られなかった金田一映画が、再び『本陣殺人事件』として製作された時、「今、ATGが私の作品を取り上げた事は大きな冒険と思われる」とパンフレットで語っているのだが、既にこの時期は第二の横溝正史ブームが始まりつつあり、あながち冒険と言うほどではなかったのだ。横溝は本作の金田一を演じた中尾彬について、以下のようにコメントしている。「男振りや服装は原作のイメージとは違っているが、控えめな演技、体臭から発散するさわやかさは、これはこれで可愛くて善良な金田一耕助として、私の金田一耕助ファンにも共感を呼ぶであろうし、またそうあってほしいと祈っている。」ここから、中尾彬の金田一をかなり気に入った事がよく伝わってくる。それから1年も経たない内に公開された『犬神家の一族』では、更にお気に入りの俳優が金田一耕助を演じる事になる…石坂浩二だ。石坂の回想によると撮影中に火災が発生して、その時無我夢中で金田一よろしく裸足で飛び出した所を訪れていた横溝が、このように声を掛けてきた…「今まで何となく、君の金田一は心配だったんだけどね…」と、まるで死刑の宣告を受けるように身を堅くしたところ「先刻、セルの着物で袴の裾をふみくだくばかりに裸足で家事を見に飛んでいく君を見ていたら、なぁる程、金田一だわい…と、思ったよ。好奇心が強くてね」この言葉を聞いた時に石坂は天にも昇る気持ちになったという。とは言え、それぞれ個性豊かな俳優が演じる金田一は、どれもお気に入りだったらしいが、中でも大喜びしたのは『悪魔が来たりて笛を吹く』で西田敏行が抜擢された時だ。パンフレットにも書かれているが、兼ねてより西田のファンで、「巧まぬユーモアの底に漂う真摯な演技…というより人柄は、金田一耕助に打ってつけだと思う」と大絶賛しているのだ。ちょくちょく撮影現場を訪れていた横溝は『悪魔の手毬唄』も見学に訪れ、岸恵子に会う事を心待ちにしていたという(都合で実現出来なかったらしいが…)。『悪霊島』では完成試写を観た後に、「岩下志麻の妖美なところは、そのまま出ていて良かった」とか「あれだけの役柄の味が出せる女優さんはいない」等々…岩下志麻を褒めちぎっていた。
また、横溝はよく映画に出演している。『犬神家の一族』では金田一が宿泊するホテルの亭主。『病院坂の首縊りの家』では、ご夫婦で金田一をよく知る作家(自身の役?)。…と、ここからも映画が好きだったのだなぁ〜と、うかがえるのだが、中でも『悪魔が来たりて笛を吹く』ではテレビスポットのコマーシャルに出演してしまった。「私は、この恐ろしい小説だけは映画にしたくなかった」と、濃紺の着物に白いマフラーを羽織って、ステッキを片手に立つ姿は、なかなかのモノ。勿論、映画の中でもしっかりと闇市の屋台の親父さんを飄々と演じている。『獄門島』の映画化に当たっては、前二作が原作に忠実であったのに対し、原作者である横溝ですら知らない犯人の設定がガラリと変えられている。市川崑監督の手腕を信頼しているからこそ出来る決断だと思われるが、逆に犯人が誰なのかを観客のように楽しんでいるところは大物と言わざるを得ない。おまけに、ココでも予告編に登場し、「金田一さん、実は映画の中の犯人を知らないんですよ」と告白している。素人っぽさがプンプン出ている棒読みの台詞が味があって大好きだったが、本人も映画や予告編出演を結構、楽しんでいらしたようである。東宝版金田一シリーズの最終作『病院坂の首縊りの家』のパンフレットで、「私の映画出演はこれで三本目だが、今まではたった一言ですんだのに、今度は石坂金田一を相手にそうとう台詞のやりとりがある。それを大過なくやりおおせることが出来たのは、一に市川崑監督の指導よろしきを得たのと、二に石坂浩二君の思いやりと優しい心遣いのおかげである。…今更このコンビに惜別の情を禁じ得ないよえんである」と、感想を述べている。実は、映画だけではなく自身の作品の中にも登場しており(ミステリ小説では事件の記述者として作家が登場する例は多い)映画化はされていないが、“黒猫亭事件”で初登場し、“獄門島”では事件解決後に金田一と会ってトリックについて語っている。勿論、“病院坂の首縊りの家”にも成城の自宅で金田一と話す場面で登場しているから、映画は正確に描いているわけである。
横溝 正史(よこみぞ せいし 本名:よこみぞ まさし)SEISHI YOKOMIZO
1902年5月24日 - 1981年12月28日 現在の兵庫県神戸市中央区東川崎町生まれ。
1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎に父・宜一郎、母・波摩の三男として生まれる。父の郷里は岡山。1920年(大正9年)3月神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業、第一銀行神戸支店に勤務。1921年、雑誌『新青年』の懸賞に応募した「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」が入選作となる。これが処女作とみなされている。1924年、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)卒業後、一旦薬剤師として実家の生薬屋「春秋堂」に従事していたが、1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年に『新青年』の編集長に就任、その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社して専業作家となる。1934年(昭和9年)7月、肺結核の悪化により、長野県での療養を余儀なくされ、執筆もままならない状態が続く。一日あたり3〜4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帖等を中心とした執筆に重点を移さざるを得ないなど、不遇な時代が続いた。作家活動が制限されたため経済的にも困窮し、一時は本人も死を覚悟するほど病状が悪化したが、終戦後、治療薬ストレプトマイシンの急激な値崩れにより快方に向かう。
1945年(昭和20年)4月より3年間、岡山県吉備郡真備町岡田(現・倉敷市真備町)に疎開。第二次世界大戦終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、本格推理小説を続々と発表する。1948年、『本陣殺人事件』により第1回日本探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。社会派ミステリーの台頭で一時は忘れられた存在となっていたが1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で『八つ墓村』が漫画化・連載(作画:影丸穣也)されたことを契機として注目が集まる。ミステリとホラーを融合させたキワ物的な扱いであったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。結果、『犬神家の一族』を皮切りとした石坂浩二主演による映画化、古谷一行主演による毎日放送でのドラマ化により、推理小説ファン以外にも広く知られるようになる。作品のほとんどを文庫化した角川はブームに満足はせず、更なる横溝ワールドの発展を目指す。七十の坂を越した横溝もその要請に応えて驚異的な仕事量をこなしていたとされるが、社会派の影響を受けた作品などはファンの評価も様々である。ただ、この後期の執筆活動により、中絶していた『仮面舞踏会』を完成させ、エラリー・クイーンの「村物」に対抗した『悪霊島』、金田一耕助最後の事件『病院坂の首縊りの家』が発表されている。また小林信彦の『横溝正史読本』などのミステリ研究の対象となったのもブームとは無縁ではない。
1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため死去。東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている(Wikipediaより一部抜粋)
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