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3年前、日系二世スティーブン・オカザキ監督のドキュメンタリー『ヒロシマナガサキ』というアメリカの映画を観た。それが今回の特集をやろうと思ったキッカケだ。日系人とは言え、アメリカ人の側から見た“原爆”とは一体どのように映っているのか…作品自体は実に真摯に被爆者たちの言葉をしっかりと捉え、正確に伝えようとしていたのが良く分かった。しかし、一方で“原爆”を開発した人間、エノラゲイの登場員たちの言葉も、ありのままに映し出される。これが現実なのだ…彼らの口から発せられた言葉を聞いた時、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。「もしかしたらアメリカ人も罪の意識に苛まれているのでは?」等といった、意味のない性善説に期待を持っていた自分自身に怒りを禁じ得なかった。あろうことか、彼らは無神経…というよりも低レベルの知能しか持ち合わせていないのでは?と思えるような発言をしたのだ。開発者の一人ローレンス・ジョンストンは、「我々はパンドラの箱を開けてしまった…世界は核戦争の可能性と共に生きていくしかない」と語って(信じられないのだが薄ら笑みを浮かべて)いた。また、ほぼ全員が「原爆を投下した後、悪夢なんて見なかった」そして「戦争を早く終結させるためにやむを得なかった」と、平然と語っていたところには、“銃犯罪世界一”の国らしさがよく出ていた。日本は世界で唯一、原爆を使用された国であるにも関わらず、1945年8月6日・広島、8月9日・長崎…この日の意味を知らない子供たちが増えているという。いや、もっと大人でも怪しい人間は意外と多い。世界がようやく核廃絶に向けて動き始めた現在、もう一度、被爆国である日本人という当事者にしか作れなかった(語れなかった)“原爆映画”を振り返ってみたいと思う。 さて、“原爆映画”を語る時、新藤兼人監督を無くして語る事は出来ない。脚本家であった広島出身の新藤は占領集結を待ち(アメリカ軍が占領していた終戦から7年間は原爆被害について言説を厳しく規制していたのだ)、自ら書き上げた脚本を監督した『原爆の子』を発表。乙羽信子演じる主人公が原爆から生き延びた教え子を訪ね歩く物語だが、その先々で被爆者の悲惨な現実を目の当たりにする。忘れられないのは、原爆が投下された瞬間の映像だ。無邪気な子供たちの笑顔の間にインサートされる8時15分に針が近づく時計のカット。観客は、その時間の意味するところを知っているだけに、針が刻まれるのと同様に胸が押しつぶされそうな圧迫感を覚える。また、『原爆の子』に映し出される広島の映像はセットでもCGでもなく本物の風景であることに原爆の凄まじさを窺い知る事が出来た。戦争に負けて口を閉ざさざるを得なかった日本人が、ようやく自国の受けた戦災の傷跡に目を向け始めた時に作られたこの作品の意義は大きい。繰り返し言わせてもらうが、この時は“まだ数年前の事”なのだ。しかし、日本が戦後の混乱から立ち直り始めて、復興から発展へと向かおうとしていた矢先、またしても核の恐怖にさらされる事となる。1954年、ビキニ環礁で行われた水爆実験に、付近で漁をしていた漁船が遭遇。乗組員全員が被爆するという事件が起こった。まだ原爆を投下して10年も経っていない時期に日本近海で、こうした実験を行ったアメリカの無神経さもさることながら、日本の漁船にスパイをしていたのではないか?という疑いまでかけたのだから日本人の怒りも浸透に達して反米感情が一気に噴出した。これを新藤監督がドキュメンタリータッチで映画化したのが『第五福竜丸』である。映画の中で謝罪の言葉がないアメリカの医療チームに対し、日本の医師団が怒りを露わにするシーンがある。殆どの日本人の心境は、それと同じだったに違いない。しかし、アメリカとしては、破壊力の効果測定と同様に人間に対する影響研究の方が重要だったのだろう。1988年には、広島を巡回中に被爆した劇団員たちを追い続けたセミドキュメント『さくら隊散る』を発表するなど原爆に関する作品を5本撮っているが更に、もう1本、原爆映画を作りたいと念願を抱いている。今まで作ってきた作品は爆発する瞬間を撮っておらず、その瞬間の映像を再現しなくては、原爆の悲惨さは伝え切れていない…ということだ。既にシナリオは完成している“ヒロシマ”というタイトルの作品では投下され爆発までを克明に再現され、実際に作るとなると20億円もの製作費が掛かるという事で、企画は頓挫されている。「十把一絡げの数字ではなく、個の問題として広島に落ちた瞬間の原爆を描かなくては、亡くなった人の霊を弔うことにはならない」と主張し続けている新藤監督。こうした作品を作るために国がお金を出すのであれば、使い道のない道路や橋を作った時のような文句は出ないと思うのだが…。 新藤監督と並ぶ日本映画界が誇る巨匠・黒木和雄監督も戦争の悲劇を描いた作品を数多く発表しているが、その中に“戦争レクイエム三部作”と称される庶民の立場から見た戦争映画の秀作がある。その内の2作品が広島と長崎に投下された原爆によって人生が変わってしまった人々の姿を描いている。前者は井上やすしの戯曲を映画化した『父と暮らせば』、後者は原爆が投下される前日の長崎に暮らす家族を描く『TOMORROW 明日』である。後者は、戦時中でありながらも、つつましく小さな希望を抱いている人々の物語が、ラスト直前まで続く。勿論、観客は、登場人物たちの運命を知っている。新婚の二人も、生まれたばかりの赤ちゃんと母親も、亭主のために弁当を持って待つ妻も…その運命の時に向かっている切なさ。彼らの笑顔が希望に満ち溢れていればいる程、一瞬にして、それらを奪い去った原爆に対する憎しみが増す。殆どの“原爆映画”は、投下された以降を描いていたのに対して、その時に向かう人々を描く事で「爆発の下に人間がいたのだ」という事を伝えられたのではないだろうか。また木下恵介が監督した『この子を残して』も長崎の原爆に焦点を当てていたが、こちらは被爆した主人公が2人の子供を育てながら、原爆症で死んで行くまでを痛切に描いている。本作では、主人公がハッキリと怒りを持って「被爆者は戦争終結のために犠牲になったんだ」と言うセリフが耳に残った。 原爆の悲劇を幅広く世間に知らしたのは、実は映画ではなく漫画であった…後に映画化もされたが中沢啓治による“はだしのゲン”だ。原爆によって父親と姉、そして弟を失った主人公ゲン少年が焼け野原となった広島で逞しく生きていく姿を描いた原作者の実体験に基づいた物語は漫画雑誌に掲載されるや否や大反響を呼び、今や世界各国で翻訳本が出版されている。信じがたい事だが、英語版のみが、ずっと作られておらず最近ようやくアメリカで出版されたという。同様に、漫画という手法で原爆を描いた、こうの史代の同名原作から映画化された『夕凪の街、桜の国』は、ストレートに原爆開発者に対する痛烈な皮肉と共に怒りを表している。前半の主人公である麻生久美子は、生き残った事に引け目を感じて生きている。『父と暮らせば』の宮沢りえ演じる主人公もそうだった。「自分だけが幸せになったらいけんような気がする」と彼女たちは、人を好きになる事を極端に避ける。それは、死んだ人間と生き残った人間―その明暗を分けた理由は、たんなる偶然でしかない―つまり肉親や親友が死んで、運良く助かった自分の事を死んだ人々への罪悪感となっているからだ。 最後に『ヒロシマナガサキ』でインタビューに応えていた原爆関係者たちに改めて、問いたい…「9.11のあの日、アルカイダの支持者が貴方たちと同じセリフを口にした時、その言葉に理解を示せますか?」と。そして、もうひとつ…。『夕凪の街、桜の国』の主人公が、原爆症で死ぬ間際に原爆に関わった人間たちに向けて発するメッセージに対して、何と答えるのか…是非、聞きたい。『ヒロシマ、ナガサキ』のインタビュー時のような浅はかな返答だけは自国アメリカのためにも、しないように心から願う。
第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言を遺して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へと移行することを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。また事件が一般に報道されると、「放射能マグロ」の大量廃棄や、残留放射線に対する危惧から魚肉の消費が落ち込むなど、社会的に大きな影響を与えた。これに対してアメリカは、第五福竜丸の被曝を矮小化するために、4月22日の時点でアメリカの国家安全保障会議作戦調整委員会(OCB)は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴのちりの化学的影響とする」と明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長が死亡した際に、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けている。 第五福竜丸の被曝により、日本国民は原子爆弾・水素爆弾と両核爆弾の被爆(被曝)体験を持つ国民となった。第五福竜丸は被曝後、救難信号(SOS)を発することなく自力で焼津漁港に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている。 その後、第五福竜丸は焼津港に帰港してから鉄条網が張られた状態で係留されて科学者の検査を受けていたが、文部省(現:文部科学省)が船を買い上げ、8月に東京水産大学(現:東京海洋大学)品川岸壁に移される。この後さらに検査と放射能除去が行われた後に三重県伊勢市の強力造船所で改造され、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となる1967年に老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られた後に東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に打ち捨てられるが、同年、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されている。心臓部であるエンジン部分は廃船時に船体から切り離されて貨物船「第三千代川丸」に搭載されていたが、この貨物船は1968年に航海途上の三重県熊野灘沖で座礁、沈没した。その28年後の1996年12月、民間有志(「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示された。 |
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