音楽:伊福部昭のクレジットは子供の頃、鮮明に焼き付いていた。伊福部昭は、むしろ大人よりも子供たちにその名が知れ渡っていたのではないだろうか。昭和30年代から40年代にかけて東宝の人気シリーズ『ゴジラ』の音楽を殆ど手掛けていたのが伊福部昭だったからだ。度重なる原水爆実験により眠りを妨げられた怪獣ゴジラが、口から放射能を吐きながら東京を火の海にしてしまうバックに流れる伊福部の曲は重苦しく鳴り響きながら、どこか物悲しさを醸し出していた。それは、原水爆によって放射能をカラダ中に浴びてしまい、恐ろしいモンスターに変貌してしまった悲しみや悔しさ…にも思える。子供心に、ゴジラの悲しみを感じたのは、原水爆という破壊兵器の恐ろしさが、その前提にあったからだ。放射能の熱線を吐く怪獣に同情的になるのは、しっかりとゴジラも人間の被害者として位置付けていたからだ。伊福部が関わった作品は戦争を題材にした映画が多く、必然的にこうした鎮魂歌(レクイエム)的な曲が伊福部の音楽には多いように思われる。

 その2年前、昭和27年、伊福部は原爆を題材とした新藤兼人監督作品『原爆の子』の音楽を担当していた。新藤監督は映画を撮り始める前に、被爆者たちとスタッフ、出演者たちによる座談会を設けた。そこで、現実の被爆者の叫びや苦痛を目の当たりにして、原爆が投下された直後の広島を描くよりも、悪夢に苛まれながら、生き残った人々を伝えたい…と新藤監督は思い骨子が固まった。新藤監督は伊福部に対して「完成した映画に曲を付けていくのではなく、映像の参加者としての音楽」を求めたという。音楽も監督と同じ土俵に立ち、視覚と聴覚の両方から観客に訴える映画を新藤監督は求めたのだ。その要望に応えるべく、伊福部の書いたスコアは、映像と一体化しながらも各々がドラマを構築されていた素晴らしいものになっていた。特に、原爆が炸裂した時の音楽は、後にアメリカ映画音楽研究所で「斬新な音楽処理例」として挙げられるなど高い評価を得ている。細かくカット割りされた原爆投下から被爆した人々が映し出されるまで音楽が重要な役割を担っている。まず、無音の状態で8時15分までの秒を刻む音のみが緊張感を高め、被爆者たちが映し出されてから静かなコーラスが入ってくる。そして、いきなり重厚なオーケストラと共に暗い母音歌唱と呼ばれる女性の低い合唱が響く。この映像と音楽による悪夢のようなセッションだけで原爆を作り出した人間の愚行を神々が怒り嘆いているように表現している。伊福部はこのシーンに限らず、全編を通して、何か陰鬱な旋律の曲を被せている。どんなに広島が復興を始めたとしても純粋に手を叩いてはしゃげない心理を音楽に込めているのだ。『原爆の子』から遅れること1年後に公開された『ひろしま』ではコールモネという特殊奏法を用いて衝撃的な楽曲で観客の不安感を煽る。まるで、泣いているようにも聴こえるこの演奏は、翌、昭和29年に製作された『ゴジラ』に受け継がれていく。重苦しい地を這うようなバスとドラムで恐怖を表現しながら、やがて重なるドラマチックなメロディーラインは悲しみを連想させる。この見事な融合のおかげでサウンドトラック盤の音楽だけ単独で聴いても、情景が頭の中でつぶさに再現されるのだ。

 第1作目の『ゴジラ』だけではなく昭和東宝特撮シリーズは、どれもが伊福部の代表作に挙げても良いほどで、日本映画音楽史上に残るものとなった。脱稿されたばかりの“G作品準備稿”と名付けられた書類が東宝の掛下慶吉より届けられた伊福部が、続いて行ったのは『ゴジラ』の脚本に目を通す事だった。脚本を読んだ伊福部は、『ゴジラ』にアンチ・テクノロジーの思想を感じ、すぐさま快諾。『ゴジラ』は文明へのアンチテーゼが大きなテーマとして存在しており、日本に落とされた原水爆にも耐えて、人間の攻撃にビクともしない怪獣は被爆国日本の気持ちをある意味、代弁していた。戦時中、科学研究所で働いていた伊福部は敗戦後、焦土と化した日本で、科学の限界を感じていた(戦後、血を吐いて倒れてしまった彼を科学は何の手だても講じられなかった事もあった)だけに、『ゴジラ』に対しては共感できる部分が大きかったのだと思う。彼に『ゴジラ』のオファーが来た時、周囲からは「見せ物映画に関わると作曲家として命取りになりかねない」と反対されたにも関わらず引き受けたのは、そうした理由に起因しているのだろう。『ゴジラ』の一回目の打ち合わせの時に、作品のスケールとテーマの深さに改めて「えらい事になった、こんな大きな音楽をどうやって作るか?」と呟いたというエピソードが残されている。

 映画音楽家としての伊福部昭のスタートは東宝(当時のPCL“写真化学研究所”)作品『銀嶺の果て』から。その年―昭和22年といえば、日本映画がトーキーに突入していた頃であり、ここからのスタートは、今後、伊福部が作り上げる作品に大きく影響するものであった。伊福部を語る時に忘れてはならないのが本人が意図していたかは別として…反戦映画が多いという事だ。『きけ わだつみの声』に始まり、前述した原爆映画『原爆の子』と『ヒロシマ』そして、名匠・市川昆監督の名作にして伊福部の代表作となった『ビルマの竪琴』である。『ビルマの竪琴』は前半で主人公が密林をさまよいながら無数の屍を目にして、仏門に入る決意をする。このシーンでも伊福部は打楽器から荘厳な曲調に転換して死者に対する鎮魂歌としての役割を音楽に与えている。こうして振り返ってみると伊福部の音楽には、全て“人間の命”が大きなテーマとなっているように思える。ただ単に映画を盛り上げるためだけの手段ではなく、音楽だけを聴いても曲の向こうから主人公たちが語り掛けてくるのだ。映画が総合芸術である以上、映画音楽に市民権を与えた伊福部昭の貢献度は極めて大きい。


伊福部 昭(いふくべ あきら)AKIRA IFUKUBE 1914年5月31日 生まれ- 2006年2月8日没
 北海道釧路町に生まれ、北海道帝国大学農学部林学実科に入学した後、アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキーの依頼により『日本狂詩曲』を作曲し、第1位に入賞。世界的評価を得ることとなった。戦時中は、行進曲など軍隊のための音楽や、政府の宣伝のための音楽も作曲していたが、戦後、『銀嶺の果て』で初めて映画音楽を担当。この初仕事で、音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立したが、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。そして1954年には、代表作ともなる『ゴジラ』の音楽を担当。音楽以外にも、難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロという軋んだ奏法の音を使用することを発案するなど多大な貢献をしている。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けながら、1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っていた。また、1974年には、東京音楽大学で教職の場に就きつつ、管弦楽曲、バレエ音楽、歌曲、室内・器楽曲など数多くを作曲。2006年、腸閉塞のため入院し、そのまま多臓器不全のため帰らぬ人となった。
(Wikipediaより一部抜粋)



【参考文献】
伊福部昭の映画音楽

319頁 21x 15.6cm ワイズ出版
小林淳 、井上誠【著】

主な代表作

昭和22年(1947)
銀嶺の果て

昭和24年(1949)
静かなる決闘

昭和25年(1950)
レ・ミゼラブル
戦慄

昭和26年(1951)
愛と憎しみの彼方へ
源氏物語
誰が私を裁くのか

昭和27年(1952)
激流
原爆の子
最後の顔役

昭和28年(1953)
ひろしま
蟹工船
女の一生
千羽鶴
夜明け前

昭和29年(1954)
ゴジラ
春琴物語
人生劇場 望郷篇

昭和30年(1955)
銀座の女
女中ッ子
人間魚雷回天
続・警察日記
明治一代女

昭和31年(1956)
ビルマの竪琴
鬼火
空の大怪獣ラドン
女優
神阪四郎の犯罪

昭和32年(1957)
下町
建設の凱歌
 佐久間ダム完成篇
地球防衛軍

昭和33年(1958)
季節風の彼方に
谷川岳の記録 遭難
氷壁

昭和34年(1959)
コタンの口笛
暗黒街の顔役
日本誕生

昭和35年(1960)
親鸞

昭和36年(1961)
悪名
宮本武蔵
釈迦

昭和37年(1962)
キングコング対ゴジラ
王将
鯨神
座頭市物語

昭和38年(1963)
海底軍艦
十三人の刺客

昭和39年(1964)
モスラ対ゴジラ
帝銀事件 死刑囚

昭和40年(1965)
怪獣大戦争
無法松の一生

昭和41年(1966)
大魔神
大魔神逆襲
大魔神怒る
眠狂四郎多情剣

昭和45年(1970)
座頭市と用心棒

昭和48年(1973)
人間革命

昭和49年(1974)
サンダカン八番娼館 望郷

昭和51年(1976)
大空のサムライ

昭和53年(1978)
お吟さま

平成1年(1989)
ゴジラVSビオランテ

平成3年(1991)
ゴジラVSキングギドラ

平成17年(2005)
鉄人28号 白昼の残月




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